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 メガネがない日02
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 初めてのデートの日の朝は、お母さんに叩き起こされた。
「ちょっと直! 休みの日だからっていつまでも寝てないの! 朝ご飯片づけちゃうよ」
「んー、あと」
 五分、と言いかけたわたしは跳ね起きた。
「え、あれ、今何時?」
「もう九時になるよ」
 血の気が引くのがわかった。一ノ瀬くんとの待ち合わせは十時。九時半には家を出ないと間に合わない。
 目覚まし時計と携帯電話のアラームを六時半にセットしていたはずなのに、どちらもしっかりと止めた形跡だけはあった。
 確かに昨夜はなかなか寝付けなかったけれど、よりにもよってこんな大事な日に寝坊するなんて。
 お母さんの背中を呆然と見送った後、我に返ったわたしは大慌てで身支度を整えた。

「行ってきまーす!」
 家を飛び出し駅まで走ってぎりぎり待ち合わせの時間に間に合う電車に何とか乗り込んだはいいものの、それなりに混んでいる車内で乱れた息やふき出る汗と格闘する羽目になった。
 電車を降りた途端足元がふらついて、つい近くにあったベンチに座り込んだ。約束の時間まではあと五分。急いで鞄の中から鏡を取り出して、どこかおかしなところはないか確認する。首にまとわりつく髪を払っていたらメガネのない自分の顔が急に恥ずかしくなってきた。一応メガネは持ってきているけれどコンタクトレンズを外している時間はもうない。
 鏡を鞄に戻し、何度か深呼吸してから立ち上がった。
 大丈夫、大丈夫とおまじないのように口の中で唱えながら階段を上り改札を出る。
 駅前の広場にある大きな木の下が待ち合わせ場所だった。その木の周りには待ち合わせらしき人たちがすでに何人もいたけれど一ノ瀬くんの姿は見当たらない。
 木の近くに行って息を吐き出す。とりあえず遅刻という失敗はせずに済んだ。
 メガネがないせいか落ち着かない。きょろきょろと辺りを見回している途中で、心臓がひときわ大きく跳ねた。
 中学生らしき数人のグループの間から見えたのは白いパーカーにジーンズ姿の一ノ瀬くん。
 一ノ瀬くんは白がよく似合うなと思った途端何故か手が震えて、右手に持っていた鞄を両手で持ち直した。一ノ瀬くんが近づいてくるにつれてわたしの顔もどんどん熱くなっていく。緊張せずにいるのはとてもじゃないけれど無理だ。わたしの数メートル先で一ノ瀬くんが立ち止まり目が合った。わたしはかちかちに固まりかけていた口を無理やり開いた。
「お、おは、おはよう!」
 最後まで言う前に一ノ瀬くんに目を逸らされた。一ノ瀬くんはさっきのわたしみたいに辺りを見回した。まるで誰かを探すように。一ノ瀬くんが今日この時間この場所で探す相手は多分わたしのはずで、そしてわたしは一ノ瀬くんの前にいる。
 わたしがどう反応すればいいのか困っている間に一ノ瀬くんはわたしに挨拶を返してくれないまま再び歩き始めてわたしの横を通り過ぎていった。
「い、一ノ瀬くん!」
 一ノ瀬くんに無視されたことに動揺したわたしは、何も考えられずに震える声で呼び止めた。
 足を止めた一ノ瀬くんが振り返ってわたしのほうを見た。一ノ瀬くんの視線が何度もわたしの上を通り過ぎる。
「一ノ瀬、くん」
 泣きそうになるのを堪えもう一度呼ぶと、やっと一ノ瀬くんの視線がわたしに向けられたところで止まったけれど一ノ瀬くんはわたしを見つめたまま何も言ってくれない。
「おは、よ」
 逃げ出したい衝動と闘いながらもう一度挨拶をする。
「……古谷さん?」
「な、に?」
 よかった。今度は無視されなかった。
「あー、おはよう。誰かと思った」
「え?」
「メガネないからわからなかった。髪型も違うし」
 一ノ瀬くんの言葉を時間をかけてどうにか理解する。つまり一ノ瀬くんはわたしのことを無視したのではなくただ単にわたしの顔がわからなかっただけなのだ。
 よかったと思いかけて、一ノ瀬くんはわたしの顔をメガネで認識していたという事実に気づいた。
「そ、そっか。コンタクトにしてみたんだけど、やめたほうがよかったね」
「んー、何か知らない人みたいだけど、メガネないとこ見たことなかったしいいんじゃない?」
 落ち込みかけた気持ちは、やっぱり一ノ瀬くんの言葉で簡単に浮上する。
「それなら、いいんだけど」
「メガネのない古谷さんって想像したことなかった」
 メガネをいやがられていないのは嬉しいけれど、一ノ瀬くんの中で確実にわたし=メガネになっているのは少し複雑かもしれない。
「ええと、時間大丈夫?」
 手ぶらの一ノ瀬くんはパーカーのポケットから携帯電話を取り出した。
「うん、じゃあ行こうか」

 私服姿の一ノ瀬くんと一緒に歩いて一緒に電車に乗る。それだけのことだと思おうとしても思えなくて、電車の中ではとにかく自分の緊張を抑えるのに必死だった。
 映画館があるのは、学校から数駅しか離れていないけれど降りるのは初めての駅だった。連休初日で天気もいいせいか電車に乗っても電車を降りても人が多い。
 改札を出ると早速人波にのまれて一ノ瀬くんと離れそうになり思わず右手を伸ばした。
 伸ばしたわたしの右手を一ノ瀬くんの左手が掴んだ。
「大丈夫?」
「あ、うん、ありが、とう」
 一ノ瀬くんはわたしの手を掴んだまま歩き出す。
 手を繋いでいるのはただ単にはぐれないようにするため。わたしは自分にそう言い聞かせることで恥ずかしさに耐えた。事実、一ノ瀬くんがわたしの手を引いてくれているのはそれが理由で、何よりも今日は初めてのデートなのだ。そんな日に恥ずかしくて手を繋げないなんて言えるわけがない。
 どれくらい歩いたのか。多分十分も歩いていないけれど何時間も歩いたように感じた。
 映画館が入っているビルにやっと着いたときには手に尋常じゃない量の汗をかいていて、こわくて一ノ瀬くんをできるだけ視界に入れないようにしていたけれど一ノ瀬くんの「何かすごい汗かいてるね」の一言を避けることはできなかった。救いなのは、それを一ノ瀬くんが少しも気にしている様子がないことで、わたしもごめんと謝った後はそのことを忘れるよう努めた。
 映画のチケットは一ノ瀬くんがすでにとっていてくれたらしく機械で発券するだけで、座席もスクリーンが見やすい位置だった。
 ポップコーンとコーラを買い、一ノ瀬くんの右隣に腰を下ろしたわたしは一気に疲れが出てくるのを感じながらコーラの入った紙コップをドリンクホルダーに置いた。
「一ノ瀬くん、チケット代を」
 ポップコーンを落とさないように気をつけながら鞄からお財布を出した。
「ああ、いいよ別に」
「え、いや、でも」
「見る映画、俺が勝手に決めちゃったし」
 でも、ともう一度言いかけたのを寸前で飲み込んだ。昨夜の大助のアドバイスが頭をよぎる。確か、向こうがおごると言ってきたときは適度に甘えとけ、だった。適度にってどれくらいだろう。チケット代は適度?
「ええと、あ、ありがとう」
 迷って結局ここは素直におごってもらうことにした。別の機会があったらそのときはわたしがお金を払おう。
 映画が始まるまで一ノ瀬くんとはほとんど会話がなく、わたしはまだ何も映っていないスクリーンを見つめながらポップコーンを口に運び続けた。


 一ノ瀬くんと初めて見た映画の記憶は、開始数十分で途切れていた。
 CMで見てかなり濃厚そうな恋愛映画だということは知っていたから、気楽に見られるアクション映画が好きなわたしはある程度の覚悟と気合いをもって見ていた。そして隣には一ノ瀬くんがいるという緊張感。眠気を感じる余裕はなかったはずなのに、早々にポップコーンを食べ終えて眠気を自覚したときにはそれは抗いようもないほど大きくなっていた。
「古谷さん、終わったよ」
 一ノ瀬くんに肩を揺すられて起こされたわたしは、睡魔から一気に解放された代わりに頭の中が真っ白になって何も考えられなくなった。昨日想像したありとあらゆる失敗の中でも、さすがにそれはないかと自分でも思った失敗をわたしはしたのだ。
「あ、う」
「早く出ないと」
 真っ白になったわたしは一ノ瀬くんに促されるまま立ち上がった。
「映画、思ってたよりもよかった」
 エスカレーターを何度か降り、ビルの外に出て太陽の眩しさに思わず目を細めたわたしの耳に飛び込んできた一ノ瀬くんの言葉が真っ白だったわたしの涙腺を直撃した。
「一ノ瀬、くん」
 せめてこんなところで泣くことだけは避けなければいけない。わたしは鞄を持っていた右手の甲に爪を立てて何とか声を絞り出した。
「何?」
「本当に、ごめん。わたし、ね、寝ちゃって」
「あーうん、起こすのが悪いくらい熟睡してたね」
「……ごめんなさい」
 穴があったら入ってもう二度と出てきたくなかった。
「いや、緊張して夜眠れなかったのかなーとか思ったら何かおもしろかった」
「え」
「それよりもおなか空いたから行こ」
 何事もなかったかのように歩き出した一ノ瀬くんを、少し遅れて慌てて追いかけた。
「手、繋ぐ?」
 人込みの中を歩きながら一ノ瀬くんが言った。
 手を繋ぐのにははぐれないようにするためというちゃんとした理由がある。ここに来るまでも、一ノ瀬くんはわたしの手が震えていても汗で湿っていても気にしないでいてくれた。だから。
 わたしは一瞬迷った後、頷いた。
「練習の効果出た?」
 一ノ瀬くんがわたしの右手を握って体の右側の感覚がおかしくなるのを感じながら、わたしは頷いた。
「うん。出た、かも」
 本当は練習の効果というよりも一ノ瀬くんが、一人で空回りばかりしているわたしをいやがったりしないで当たり前のことのように受け入れてくれるとわかってきたから、のほうが大きいような気がする。
「一ノ瀬くんって、すごくやさしいね」
 ちらりと一ノ瀬くんのほうを見たら目が合ってすぐに前を歩く人の背中に視線を戻した。
「やさしいなんて言われたの初めてかも。色々ひどすぎるってのはよく言われるけど」
「あ、あと、包容力、かな。包容力がすごくある」
 緊張を少しでも紛らわそうとしているのか、口が勝手に動く。
「んー、それってただ単に、古谷さんが人をいいほうに解釈するのがうまいだけなんじゃないかな。古谷さんフィルターを通して見た俺って、全然俺っぽくないもん」
「そんなことないよ」
 遠くから見ているだけだった頃のわたしは、多分一ノ瀬くんが言うフィルターを通して一ノ瀬くんを見ていた。でもそんなもの、一ノ瀬くん本人が全部壊してしまった。
「わたし、一ノ瀬くんのこと好きになってよかったって本当に思、う」
 しまった。今のは口に出すつもりじゃなかったのに。
「ありがとう」
 一ノ瀬くんの声はいつも通り落ち着いていた。一ノ瀬くんが本気で驚いたり動揺したりするところなんてこの先もずっと見られないような気がする。
 繋いでいる右手が熱くて溶けそうだ。

「お昼、どこで食べるの?」
 駅に着いて一ノ瀬くんの手が離れてからわたしはさっきから気になっていたことを訊いた。
 駅前よりも映画館が入っているビルのほうが食べるところがたくさんあったはずだ。
「ああ、うちで食べる」
「……一ノ瀬くんの、うち?」
「そう。おかあが張り切って作るって言ってた」
 一ノ瀬くんの家に行くならと切符を買うために鞄に手を突っ込んだわたしは、鞄の中でお財布を掴んだところで手を止めた。
「……え?」
「ロールキャベツ。古谷さんも好きだって言ってたよね」
「うん、ロールキャベツは好きだけど」
 一ノ瀬くんのお母さんがロールキャベツを作っておいてくれているということなのか。一ノ瀬くんは友達が遊びにくるとでも言ったのかもしれない。
「今日も一ノ瀬くんのうちって誰もいないの?」
「いや、愛は遊びにいくとかって言ってたけどおとうとおかあはちゃんといるよ。古谷さんも一緒にうちでお昼食べようって言い出したの、おとうたちだし」
 いないという答えが返ってくると思い込んでした質問に思わぬ答えが返ってきた。本当に思ってもいない答えだったからわたしは一ノ瀬くんの言葉の意味をなかなか理解できない。
「……一ノ瀬くんの家の人、わたしのこと知ってるの?」
「知ってるよ。愛が騒いだんだろうけど、いきなりおとうが部屋に来て彼女いるのかって訊かれて」
「そ、それで一ノ瀬くんは」
「普通にいるって答えたけど」
 わたしが一ノ瀬くんの彼女。言葉にするととてつもなく非現実的な響きに聞こえる。
「そしたらおかあも一緒になって大騒ぎしてさー。古谷さんをうちに呼べってうるさくて」
「そうなん、だ? え?」
 もしわたしがお父さんにそんなことを訊かれたら、と考えていたわたしの耳を通り抜けようとした一ノ瀬くんの言葉が途中で引っかかった。そういえばさっきも同じように引っかかった言葉があった。引っかかったけれど理解できないままにしていた言葉。
「言ってなかったっけ、今日うちの親に古谷さん紹介することになってるって」
 今度は一ノ瀬くんの言葉が真っ直ぐ頭に届き、わたしはしばらく息をすることも忘れ一ノ瀬くんを見つめた。
「何?」
「き」
「うん」
「聞いてない!」
「あれ、そうだっけ。いつもに増して緊張してるのそのせいだと思ってた。言ってたらもっと緊張してたのかな」
 何故か楽しそうに言う一ノ瀬くんが恨めしかった。
「わたし、無理だよ。い、家の人に挨拶なんて、何の準備もしてなくて」
 傍目から見たらさぞかし挙動不審だと思われるだろう動きをしている途中でわたしは気づいた。
「それに、一ノ瀬くんはいいの?」
「何が?」
「だから、ええと、その」
 付き合い始めてまだ少ししか経っていない。しかも一ノ瀬くんはわたしのことが好きで付き合っているわけではないのに。とは言えずに結局何でもないと誤魔化したわたしは一ノ瀬くんに行きたくないと強く言うこともできずに電車に乗ったのだった。

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