トップ - 小説一覧 - 青い鳥はいない14 ←前へ   次へ→


 本物だ。
 何度も見た、黒岩双葉にもらったお兄さんの写メと同じ顔を見つめた。本物も、黒岩双葉とよく似ている。


  14.お兄ちゃんと一緒


 一瞬驚いたような顔にはすぐに笑みが広がった。
「っと、ごめんね。もしかして薫子ちゃん? 双葉のお見舞いに来てくれたんだ。ありがとう」
 何度も何度も見た、やさしそうな笑顔がそこにあった。声も、お兄さんのほうが低くてずっと落ち着いた感じがするけれど兄弟だからか似ている気がする。
 その声が私の名前を呼んだ。心臓が一際大きく跳ねた。
「あ、申し遅れました、双葉の兄の若葉です。弟から話は聞いていて。会えて嬉しいなあ。どうぞよろしく」
「ま、槙村薫子です」
 私の前に差し出された右手の意味に少し遅れてから気づいて慌ててその右手を握った。
 黒岩双葉の手よりも大きな、あたたかい手。
「兄ちゃんどうしたの」
「ちょっと用があって父さんに電話したら、双葉が風邪ひいて学校休んだって聞いたから飛んできたんだよ。でも思ったよりも元気そうでよかった」
 ニコニコと、黒岩双葉みたいに笑う人だった。でも不思議とイライラしない。
「え、仕事は? 会社遠いんじゃ」
「ちゃんと問題ないようにしてきたから大丈夫」
「そういうことじゃなくて」
「あの」
 ぼーっと二人の会話を聞いてしまいそうになった私は慌ててその会話を遮った。
「私、もう帰るので。お邪魔しました」
 二人分の視線のうち主にお兄さんの視線が気になりながら頭を下げて、お兄さんの横を通って部屋を出る。顔が熱い。
 芸能人に会ったときって、こんな感じかもしれない。
「薫子ちゃん」
 玄関で靴を履いていたら何故かお兄さんがやってきて心拍数が再び跳ね上がった。
「もう暗いし、家まで送っていくね」
「え、いや、いいです。大丈夫です」
「双葉にも頼まれたから」
 黒岩双葉め、余計なことを。
「じゃあ行こうか」
 ニコニコ笑顔を前にそれ以上断れるわけがなかった。

 初対面の十五も年の離れた男の人と並んで道を歩く違和感が結構ひどい。
 スーツ姿のお兄さんは、いかにも大人という感じでそれが余計に落ち着かない原因となっていた。
「双葉、いい子でしょ?」
「え? あ、はい。そうですね」
 唐突に訊かれて慌てて答えた。
 本音と建前くらい私だって使い分けられる。しかも相手はお兄さんだ。あなたの弟のことが大嫌いですなんてさすがに言えない。
「もうね、産まれたときは本当にちっちゃくてかわいくてね。歩けるようになったら兄ちゃん兄ちゃんってついてまわってきたりして。あんなにかわいい子は他にいないんじゃないかな」
 あれ?
 唐突な言葉の後に続いた言葉に、お兄さんと並んでいることに対してとは違う違和感を覚えた。
 街灯に照らされたお兄さんの横顔は相変わらずニコニコ笑顔のまま。
 黒岩双葉とお兄さんの会話を思い出す。
 一人でいるのをわかっていたとしても、もっと小さい子ならともかく中三にもなる弟がちょっと風邪をひいたくらいで飛んできたらしいお兄さん。
「双葉が小学校に上がる前には家出ちゃったから普段会えない分余計にかわいくてかわいくて。双葉とつきあえて薫子ちゃんはラッキーだよ」
 この人ブラコンだ。
 違和感が確信に変わったところで意味はなかった。
「双葉は昔からやさしい子で、俺が悩んでたりしたらすぐに気づいて励ましてくれたりしてね。その姿がまた一生懸命ですごくかわいくて悩みなんていつもそれで吹っ飛んじゃった」
「そうなんですか」
「運動は得意だけど勉強はそうでもないみたいで。でも嫌がったりしないでちゃんと努力できる子なんだよ。すごいよね」
「そうですね」
「料理もうまいんだよ。誰に習ったわけでもないのに本を見ただけでごちそうを作れちゃうんだから元々そういう才能があるのかも。俺の誕生日に色々作ってくれたときは本当に感動したなあ」
「へえ」
 お兄さんはその後家に着くまでの間、延々と弟自慢を続け私は肯定的な相槌を打ち続けた。なんの苦行だこれ。
「あの、私のうちここなので。わざわざありがとうございました」
 やっと我がおんぼろマンションの前まで来てほっとしながら私は頭を下げた。
「いえいえ、どういたしまして。こちらこそ双葉がお世話になってありがとう」
 お兄さんに両手を握られた。それがスイッチになったみたいに体温が急激に上がるのを感じた。
「双葉の話、ちょっと聞いただけでも薫子ちゃんのことすごく好きなんだなって伝わってきて。それはもう嫉妬しちゃうくらい」
 ニコニコ笑顔で冗談のようにも言われても、お兄さんの話を聞かされた後だと冗談に聞こえなかった。
「話には聞いてたけど実際に会って、薫子ちゃんが双葉みたいにいい子だってよくわかった。双葉のこと、本当によろしくお願いします」
 お兄さんの両手に力が込められる。双葉の手もいつかこんなふうに私の手を丸ごと包んでしまえるようになるのか、考えかけてその頃には無関係の存在になっていることに気づいた。
「私」
 一度開いてしまった口を閉じることはできなかった。
「私、本当は双葉のことが好きでつきあってるわけじゃないです」
 お兄さんの顔は見られなくて握られたままの両手を見つめた。
「本当は大嫌いで、不幸にしたくてつきあってて」
「違う」
 手が離れて、思わず向けた視線の先には変わらずやさしい笑顔があった。
「薫子ちゃんは双葉のこと、大好きだよ。顔にも書いてある」
 とっさに顔を隠そうとした両手をなんとか思いとどまらせた。
「そんなこと、あるわけないです」
「そんなことあるよ」
 この人には年上云々の前に黒岩双葉以上に崩すのが難しそうなこの笑顔のせいで勝てる気がしない。
「それにね、双葉にあんなに好かれて突き放せる子なんているわけない。俺もそんなこと許さないし」
 きっぱりと断言したお兄さんはさわやかな笑顔で恐ろしいことを口にした。
「心配することなんて何もない。双葉は薫子ちゃんのことも一緒に幸せにできるよ」
 まるで小さい子に言い聞かせるみたいに。
 震え上がった私の頭をお兄さんの右手が何度か撫でた。
 この人は、私の倍の時間を生きていて、確かに大人だった。
「私、お兄さんのことが好きです」
 大人だから、どんなことを言っても大丈夫だと思って気づいたら自分でも思いもしなかった言葉を口にしていた。
 顔が、じわじわ熱くなる。何言ってるんだ私。
「ありがとう」
 弟の彼女ということになっている中学生に突然告白されても、お兄さんは動揺する気配もなく微笑んでいてくれたから私もすぐに落ち着きを取り戻せた。
「恋愛感情なのかわからないけど、お兄さんにドキドキします」
「年上に憧れるお年頃?」
「かもしれません」
「薫子ちゃんが俺のこと気になるのは、俺が双葉の兄だからかな?」
 疑問系なのに断定された気分。反射的に否定したくなったけどその通りだったから仕方なく頷いた。
「大嫌いな双葉とそっくりなのに、違う人で、大人の人で、それが不思議で気になります」
「そう」
 お兄さんは何故か楽しそうに笑った。
「恋愛感情であってもなくても、ああ見えてやきもち焼きだから双葉にはあまり言わないでやってね。俺が恨まれちゃう」
 お兄さん、ずるい。黒岩双葉が私のことを好きな今なら、私が他に気がある素振りを見せるのも立派な嫌がらせになると気づいたけど、そんな言い方をされたら言いたくても言えなくなる。
「それじゃあ、そろそろ行くね」
「あ、はい、変なこと言ってごめんなさい。本当にありがとうございました」
 もう一度お礼を言って頭を下げた。



 翌朝、待ち合わせ場所には病み上がりのせいか普段よりも大分元気がない黒岩双葉がいた。
 今日は学校に行けるという内容のメールはいつも通りにぎやかだったのに。
「……おはよう」
「おはよう。まだ休んでたほうがよかったんじゃない?」
「……熱、下がったし薫子に会いたかったから」
 元気はなくても黒岩双葉は黒岩双葉だったから、それ以上は無視して歩き出そうとしたけど何故か黒岩双葉は橋のところに突っ立ったまま動こうとしない。
「行かないの?」
「……薫子にとって、兄ちゃんって恋愛対象になるの」
 それで黒岩双葉に元気がない理由を悟った。お兄さん、私には言うなと釘をさしたのに。
 一番おいしいところはお兄さんに取られてしまったけど、せっかくのチャンスだから嫌がらせさせてもらおう。黒岩双葉とつきあっている今しかできない嫌がらせ。
 自分とつきあっている相手が自分のお兄さんに気があるなんてかなり嫌な気分になるはずだ。
 幼稚園時代の話を気にするくらいだからたとえお兄さんでなかったとしても相当なダメージになるに違いない。もしかしたら黒岩双葉もそんな私のことが嫌になって別れようという話になるかもしれない。
 こんなにいい嫌がらせにどうして今まで気づかなかったんだろう。
「恋愛対象にはなるよ。大人で素敵な人だと思う。昨日も結構ドキドキしたし」
 欠点は黒岩双葉のことが好きすぎることか。あの黒岩双葉自慢はかなり堪えた。
 一体どんな反応をするのかわくわくしながら笑顔のない黒岩双葉を見つめる。
 への字になった口に眉間に寄ったしわ。睨むように私を見つめる大きな目。
 笑顔がトレードマークの幸せ王子を、私がこんな顔にさせている。幸せという言葉とはほど遠い表情に。
 上辺のさわやかさとは違って独占欲が強いのは今までのつきあいで知りたくなくても知ってしまった。人を自分の所有物のように思っている黒岩双葉は、私の中に黒岩双葉以外の異性が存在するのが相当不快なようだ。
 さすがに暴力とかはないだろうなと身構えかけた私が、黒岩双葉の大きな目が潤んでいることに気づいたときにはその目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「え」
「……っう……うう」
 黒岩双葉が声を殺してぼろぼろ涙を落とす様子をしばらく呆然と眺めていた私は、我に返って慌てて辺り見回した。幸い近くに人影はなかった。
 私が黒岩双葉を泣かせた。ことになるのかこれは。
 黒岩双葉にとって私が他の人に好意を抱くことは泣くようなことなのか。
 というかどうすればいいんだこれは。
 おろおろしかけて、黒岩双葉のことを考えるのが猛烈に面倒くさくなって私は考えるのをやめた。
「私、先に学校に行くから」
 気が済むまで勝手にそこで泣いていればいい。
 そう思って大股で歩き出した私の足は、たった数歩で小股になってさらに数歩で止まってしまった。
 もう一度だけ道端でべそをかいている黒岩双葉の情けない姿を見てやろうと振り返ると、黒岩双葉はさっきと変わらない姿で立ち尽くしていた。
 そのうち登校してくる人たちが増えて黒岩双葉の情けない姿は大勢の目に晒されることになるだろう。そうなれば黒岩双葉の幸せ王子という仮面も剥がれることになる。
 でもその原因が私であることがばれたら面倒くさいことになるかもしれない。
 私は仕方なく引き返して黒岩双葉に声をかけた。
「いつまでそうしてるつもり」
 せっかくかけた声に返ってくる声はなかった。
 さっきまで私がいたところを見つめて涙を流し続ける姿は情けない上にちょっとこわい。
 このままだと埒が明かない。私は嫌々黒岩双葉の手首をつかんで歩き出した。
 黒岩双葉は特に抵抗も見せずに大人しく私に引っ張られるままついてきた。
 こんな面倒くさいことになるなら他に好きな人ができた作戦はもう使えない。私がつきあってしまっている相手は想像以上に厄介だ。
 学校に着くと水道に直行して黒岩双葉に顔を洗わせた。黒岩双葉は言われるまま顔を洗って私が差し出したハンカチで顔を拭いた。
「……ごめん、ありがとう。ハンカチ、昨日借りたのと一緒にちゃんと洗って返すから」
 また泣き出したり無反応だったりしたら一発殴ってやろうと思ったけど、黒岩双葉も顔を洗って頭が冷えたらしい。
「双葉は、私が他の人のこと好きになるのそんなに嫌なの?」
「嫌じゃないほうがおかしい! 薫子のこと信じてるけど、兄ちゃんなら好きになっちゃうのわかるしそれに」
 黒岩双葉は私のハンカチを両手で握りしめた。
「それに俺、他の男なら勝つ自信あるけど兄ちゃんには勝てねえもん。だから兄ちゃんに薫子のこと取られちゃったらどうしようって」
 自信過剰だとか黒岩双葉もお兄さん同様ブラコンなのかとか色々つっこみたくて私は黒岩双葉を見つめた、
「好きって言っても、憧れみたいな、現実につきあいたいとかそういうのじゃないし、私はお兄さんも恋愛対象になるけどお兄さんは中学生なんか対象外でしょ」
 それも大好きな弟とつきあっている相手だ。お兄さんにそんな選択肢があるわけない。
「それに、確かに年上に憧れるところはあるけど私だって双葉のお兄さんじゃなきゃ十五も年上の人なんてそもそも気になったりしないし」
 たとえお兄さんでも、黒岩双葉にあんなに似ていなければただのブラコンのお兄さんだった。
「気になるのは、俺の兄ちゃんだから……?」
 しまったと思ったときにはもう遅かった。黒岩双葉の顔にみるみる笑みが広がっていく。
 迂闊なことを言うんじゃなかった。黒岩双葉は人の発言を自分に都合よく解釈するのを忘れていた。
「薫子」
 黒岩双葉は幸せ王子らしく幸せいっぱいの笑顔を私に向けた。黒岩双葉の嫌なところに、立ち直りの早さもつけ加えよう。
「俺、絶対兄ちゃんよりもいい男になるから。薫子に兄ちゃんよりも俺のほうがずっといいって思ってもらえるような大人になるから」
 黒岩双葉は一方的に無意味な、そして気持ちの悪い宣言をして満足そうに頷いた。


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