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 レトルトカレーを食べ終えた後もずるずると居座っていた黒岩双葉がやっと帰ろうとした午後九時前。
 友達という名の不倫相手と旅行中のはずのおばさんが突然帰ってきた。


  12.好きにはなれない


 玄関から聞こえた物音に血の気がひいている間に私の部屋のドアが容赦なく開いた。おばさんの香水のにおいが流れ込んでくる。
「ただいまー! 薫子、なんか食べるもの――」
 子供の部屋にノックは不要と考えているらしいおばさんは、いつも通りトイレのドアを開けるように私の部屋のドアを開けて固まった。
「……え?」
 まさか私以外の誰かがいるとは思いもしなかったであろうおばさんが、黒岩双葉を凝視する。今日のお化粧はいつも以上に派手で目元なんかほとんど原形をとどめていない。服も脚や胸元の露出が痛々しい。それが全部不倫相手のためのものだから余計に。
 そんなどうでもいいことを考えて現実逃避をしてしまうくらい、最悪の状態で凍りついた空気を壊したのはその原因である黒岩双葉だった。
 突然立ち上がったかと思うとおばさんに向かって頭を下げた。
「こんな時間までお邪魔してすみません、俺、黒岩双葉って言います! 薫子さんとは同じクラスで」
「テスト勉強してたの! 今帰るところだから!」
 そのままにしていたら「薫子さんとおつきあいしています」とか言い出しそうだったから慌てて遮った。
「おなか空いてるなら台所にカップラーメンあるからそれ食べて」
 私の言葉におばさんは我に返ったように黒岩双葉に適当な挨拶と愛想笑いを返しながらばたばたと台所へ向かった。
「びっくりしたー」
 黒岩双葉がわたしのほうに向き直ってへらっと笑った。
「薫子のお母さんすっげえ若いのな。しかも美人」
「ただの若づくりの厚化粧だよ。じゃあね。バイバイ」
「あ、うん、今日はありがとう。またな」
 黒岩双葉はリュックを右肩にひっかけて部屋を出ていった。
 今日は見送りはしなかった。
 最悪だ。
 おばさんに黒岩双葉を見られ、黒岩双葉にはおばさんを見られてしまった。
 昔は嬉しかったはずのおばさんへの褒め言葉も今はお世辞でも本音でも気持ち悪いだけ。
 突っ伏そうとしたテーブルの上には黒岩双葉にせがまれてやることになった文房具戦争の跡が残っている。なんだか物悲しい光景だ。二人でやるのも悪くはなかったけどやっぱり一人でやるのがいい。いつでも好きなときに思う存分遊べて終わりなんてないから。
 ため息をついてテーブルの上を片づけていたら、さっきよりも遠慮がちに部屋のドアが開いた。
「何?」
「さっきの子、なんなの?」
 事態は予想以上に深刻だった。おばさんとこんな会話をする羽目になるなんて。
「だから、同じクラスの人。テスト近いから一緒に勉強してた」
 部屋に入ってきてテーブルの前で仁王立ちしたおばさんを見上げる。
「親がいないときに部屋に呼んでこんな時間まで二人きりでいてただのクラスメートなんて言い訳通用すると思ってんの?」
「そういえば旅行、帰ってくるの明後日じゃなかったっけ」
 話をそらそうとしたらおばさんの眉間のしわがさらに深くなった。
「仕方ないでしょ、友達が急に仕事で戻らないといけなくなったんだから。車で回る予定だったけど私運転できないし」
 おばさんは大げさにため息をつくと私を睨みつけた。
「あんたがそんな子だとは思わなかった。自分がまだ中学生なのわかってる? 受験もあるのに本当に何やってんの」
 仮に私が黒岩双葉のことを本当に好きでつきあっていたとして、それでもおばさんにこんな小言を言われないといけない理由がわからない。旅行がだめになった八つ当たりをされているようにしか思えない。
「だから勉強してたんじゃん。これからまた勉強するんだからもう行ってよ」
「……何があっても自分で責任とりなよ。後悔したときには遅いんだからね」
 テーブルの下に置いていた問題集をわざとらしく広げるとおばさんは捨て台詞と香水のにおいを残して部屋を出ていった。
 どうやらおばさんは、おばさんが不倫相手とするようなことを私も黒岩双葉としていると思っているみたい。
 気持ち悪い。

 テーブルの上を片づけて、お風呂に入ったりして寝る支度を一通り終えた頃、黒岩双葉からメールが届いた。相変わらず長ったらしくて派手なメールだった。内容を要約すると「今日は楽しかった」の一言で済む。
『よかったね』
 布団に入って横になりながら、何となく守っている五文字ルールに従って適当に返信すると一分も経たないうちに携帯が電話の着信を告げた。着信画面にはもちろん黒岩双葉の名前が表示されている。
「……もしもし」
『薫子』
 起き上がって嫌々出た途端、はずんだ声が耳に飛び込んできた。
「何?」
 メールは毎日でも、電話は初めてだった。また私のメールに文句でも言うつもりか。
『声、聞きたくなったから』
「あめんぼ赤いなあいうえお」
 お望み通り声を出してやったのに黒岩双葉は電話の向こうでぶほっと思い切りふき出した。
「用がないなら切るね。おやすみ」
 黒岩双葉の返事は聞かずに電話を切った。
 幸せそうな声だった。耳に残った声はなかなか消えない。幸せ王子を不幸せにしたくてつきあい始めたのに幸せ王子の幸せの片棒をかついでいる現状。
 私の内側が黒いもやもやで覆われていく。
 握ったままだった携帯を開いて着信履歴から電話をかけ直す。
『あれ、薫子? どうした?』
 すぐに出た黒岩双葉に、罵詈雑言を浴びせてやりたかったけどひとまず深呼吸してから、黒岩双葉を困らせるために口を開いた。
「うちのおじさんとおばさんがなかなか離婚しない理由、私の受験だけじゃないんだ」
『うん』
 一方的に電話を切ったのにすぐにかけ直してきて、なんの前置きもなくうっとうしい話を始めた私を黒岩双葉は嫌がることもなく受け入れてしまう。
「私の親権をどうするかで、ずっともめてる」
 深夜の、全然密やかじゃない密談。
『自分の子供だもん。やっぱ手放したくねえんだよ。うちもそれでちょっともめたっぽい』
「違う」
『え?』
「親権の奪い合いじゃなくて、押しつけ合いでもめてる。どっちも、私のこといらないみたい」
 沈黙が返ってきて私の中のほんの一部分だけ満たされた。
「双葉がつきあってるのは、最低な人たちにもいらないって思われてるような奴なんだよ」
『それとこれとは全然関係ねえし薫子は俺には必要な人だよ』
 どんな顔でそんな恥ずかしいことを口にしているんだろう。
 とりあえず黒岩双葉の言葉は無視して続ける。
「私、あの人たちのこと心底軽蔑してる。なのに、そんな最低な人たちにいらないって思われて悲しくなるような奴なんだよ」
 お互い不倫して、子供を押しつけ合って、二人とも私が何も知らないと思って私の前では親の顔をして、全部気持ち悪い。
 でも、最低なおじさんとおばさんよりも、そんな人たちに必要とされていない上にそのことで涙が出てくる私が一番許せない。
「もう、嫌になったでしょ。別れたくなったでしょ」
 私とつきあったこと、後悔してるでしょ。
『薫子』
 ため息をつかれた。黒岩双葉に。
『そんな当たり前のことで嫌になるわけねえだろ。だから』
 泣くな。
 黒岩双葉の声が届く寸前で涙が落ちた。電話越しなのに、どうしてわかったんだろう。
「泣いてないよ」
『……うん』
「双葉が、双葉じゃなかったらよかったのに」
 今度はおやすみも言わずに電話を切った。
 携帯の電源を落として部屋の電気を消して、布団を頭の上までかぶって泣いた。
 黒岩双葉が黒岩双葉じゃなかったら、幸せになれたかもしれないのに。好きになってもらえて、必要とされて、料理もおいしいし、顔は好みじゃないけど、偽善者だけど、私の欲しいものをくれる。
 黒岩双葉じゃなかったら、好きになれたのに。


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