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 黒岩双葉はいつも笑っている。
 前から知っていた当たり前のことが当たり前ではなかったことに、金木犀の甘いにおいに包まれながら気づいた。


  10.金木犀の下で


 学校帰り、黒岩双葉に半ば無理やりつれてこられた、通学路から少し外れたところにある小さな公園のベンチで私は黒岩双葉と並んで座っていた。
 さっきまで砂場で遊んでいた親子は帰ってしまって静かな公園はさらに静かになっていた。木陰も多くてなかなかいい感じの公園だ。黒岩双葉が隣にいなければもっとよかったのに。
「薫子のメール、冷たい」
 ニコニコと体育の授業でのハプニングを面白おかしく話していた黒岩双葉の顔からいつの間にか笑みが消えていた。
 黒岩双葉が勝手に私を避けて勝手に避けるのをやめたその日以降、すっかり忘れていた黒岩双葉と携帯の番号やメールアドレスを交換したという事実を思い出させるように、一日に何度も黒岩双葉からメールがくるようになった。
 おはよう、おやすみのメールに、宿題が難しいとか塾でこんなことがあったとかいういらない報告メール、今何をしているのかと尋ねてくるメールは特に私を苛立たせた。
 黒岩双葉からくるメールはどれもうっとうしいほど絵文字やら顔文字やらが使われていた。対して私の返信は基本的に五文字以内だから無駄に前向きな解釈ばかりする黒岩双葉もさすがにへこんだらしい。無視したいメールに返信するだけましだと思ってほしいものだ。
「携帯で文字打つの苦手だから」
 両手でボタンをちまちま打っている私の背中はさぞかし寂しいことになっているに違いない。
「ふ、たば、も毎日大変だろうし無理してメール送ってこなくていいよ」
 返信するのがこの上なく面倒くさいからという本音は一応飲み込んだ。
「全然大変でも無理してるわけでもねえから」
 どこか拗ねたような黒岩双葉の横顔を見て、私は黒岩双葉が私の前ではいつも笑っているわけではないことに改めて気づいたのだった。
「双葉って」
「うん?」
 自分があまりにも自然に黒岩双葉の名前を呼んでしまったことに自分で驚きながら私は続けた。
「いつも笑ってる人だと思ってた」
 黒岩双葉はハテナマークを浮かべた顔を私に向けた。
「ええ? 授業中とか普通に真面目な顔してるつもりだけど」
「そうじゃなくて、友達といるときとか」
 それと比べて私が笑顔じゃない黒岩双葉を目撃する確率がやたらと高い気がする。
「そりゃ学校で友達とそんな暗い話とかしねえし」
「でも他の人よりも確実に笑顔が多いよ」
 しかも幸せとか平気で言えちゃうし。
「んーあんま意識したことなかったな。それがどうしたの?」
「別に、どうもしないけど、私といるときは、意外と笑ってないときも多いから」
 足下にあった小石を蹴った。早く家に帰りたい。
「そういうの、気になるんだ」
 妙に嬉しそうな顔をされて私は慌てて言い返した。
「だから別に気にならないけど何となく思っただけ」
「へへへ」
 だから何なんだその顔は。
「俺、薫子のことすっげえ好き」
「そ、そういうこといちいち言わなくてもいい」
 不覚にも顔が熱くなった。面と向かって言われたら相手が誰でもこうなってしまうものだと自分に言い聞かせる。
「多分薫子が思ってるよりも、もっと好き」
 むずむずする空気になりそうな気配に鳥肌を立てながら、私は膝のところでスカートを握りしめて自分の拳を見つめた。
「でも絶対浮気とかするでしょ」
「え、な、なんでいきなりそういう話に」
「かわいい子に迫られたらくらっとくるでしょ」
「ま、まあ、全然くらっとこねえって言ったらうそになるかもだけど」
 きっと新島さんに告白されたときもくらっときたに違いない。
「大体そのうち他に好きな人ができたから別れてくれって話になるだろうし」
「俺はそんなこと」
「双葉だけじゃなくて私がそう言い出すこともあるかもしれない」
 そもそも黒岩双葉のことなんて好きじゃないけど。
「なんで薫子、そんな悪いほうにばっか考えるんだよ」
 黒岩双葉はまた拗ねたように口をとがらせた。普段は見られない表情に私がさせているんだと思うとおぞましい。
「だって」
 私も、小さい頃は王子様とお姫様は末永く幸せに暮らしました的なおとぎ話を信じて、私の前にも王子様が現れないかと夢を見ていたこともあった。でも、そんなの現実にはありえないんだ。
「うちのおじさんとおばさんがそうだから」
 この間愛人のことを言ったときと同じように黒岩双葉を困らせてやろうという軽い気持ちで私は続けた。
「駆け落ち紛いのことまでして結婚したのに、今はお互い違う人を好きになって不倫してるんだよ。バカみたい」
 似た者同士の人たちはそんなところまで似ていて本当に笑える。
 黒岩双葉はきっとこの間みたいに困ったような顔をしている。もしくは偽善者だから哀れみの目で私を見ているかもしれない。何となく視線を黒岩双葉に向けたくなくて確認はしなかった。
「しかも離婚は私が高校に上がるまではしないとか、変なとこで親面してさ」
 真夜中の密談。最初に気づいたのは春先、夜中にトイレに行こうとしたときだった。それから時々スパイになった私は、知らないほうがよかったことも、聞きたくなかったことも聞いてしまった。
「どうせ別れるなら決めること決めて双葉のとこみたいにさっさと別れちゃえばいいのに」
 言ってからしまったと思った。今のはさすがに無神経だった。
 それに私、一人でぺらぺら喋りすぎた。
「と、とにかく、そういうわけだから、男女の仲に夢は見られないというか」
 黒岩双葉がどんな顔をしているのか、少なくとも笑顔でないことだけは確かで、別に黒岩双葉にどんな顔されたって構わないのに何故か自分の握り拳から目を離せないでいたら、頭を撫でられた。怒っているわけではないのをその手から感じてほっとしてしまう。
「話してくれてありがとう」
 黒岩双葉の声はやさしい。同病相憐れむというやつか。私は別に黒岩双葉に同情なんかしてないけど。
「そういうのってさ、人には話しにくいことだと思うから。俺も言ったの薫子だけだし」
 仲間とでも思われたのかもしれない。私も一瞬そう思いかけたことがあったけど実際は全然違う。黒岩双葉のほうがずっと恵まれている。
「でもさ生涯ラブラブな夫婦だって絶対いるって。ケンカの一つや二つはするかもしんねえけど」
「どうだろうね」
「か、薫子となら俺、そうなれる自信がある」
「それってプロポーズ?」
 気持ち悪い発言に冗談のつもりで返して黒岩双葉を見たら、面白いくらいに顔がどんどん赤くなっていった。
「今すぐは、無理だけど結婚するなら薫子とがいい」
 真顔で何を言ってるんだこいつ。
 ほんの十五年の人生でできた初めての彼女を、その何倍もの時間を一緒に過ごす相手にしたいと思うなんてどうかしている。未来の黒岩双葉が悔やんでいる姿がありありと想像できる。
 一時の気の迷いでも私にプロポーズしてしまったという恥ずかしい事実は消えない。
「そういうことはもっとよく考えてから言ったほうがいいよ」
 親切に忠告してあげたのに黒岩双葉は何故かいじけた。
「薫子のこと、いっぱい考えてるよ」
 それが事実だとしても今だけのことでどうせそのうち飽きるに決まっている。
「そ、それで、返事は」
「五年後にも同じことが言えたら考える」
 二十歳になった私と黒岩双葉は完全に赤の他人になっていることだろう。もしかしたら黒岩双葉は私のことなんてとっくに忘れているかもしれない。
 確実な未来を想像したら、すごく嫌な気分になって私のことを絶対に忘れられないくらい黒岩双葉のことを傷つけたくなった。もちろん、キス以外で。
「今度の連休」
「うん?」
「うち、誰もいないの」
 おじさんとおばさんは出張とか友達と旅行とか言っているけどそれぞれ違う相手と不倫旅行なのは明白だ。
「うん」
 きょとんとした黒岩双葉の顔を見つめて、私は言った。
「もうすぐテストだから、うちでまた勉強しようよ」
「なんか、薫子からそういうこと言うの、珍しい」
「嫌ならいいけど」
「まさか! 行く! 絶対行く!」
 勉強なんてただの口実だ。長い時間黒岩双葉といたら、もしかしたら別れられるきっかけができるかもしれないし、何かしら黒岩双葉を傷つけられるチャンスがあるかもしれない。
 私の魂胆に気づくこともない間抜けな黒岩双葉の右手が不意に私の膝の上の握り拳に重ねられた。はねのけたい衝動をこらえる。
「俺、本当に幸せ」
 言葉通りの顔で私を見ている黒岩双葉。負けたくなくて私も見つめ返す。でもこの笑顔を見ているとむかむかするから別の話題を提供した。
「双葉は」
「うん?」
「私が浮気とかしたらどうする?」
 目論見通り笑顔は消える。
「そんなの嫌だ」
「だから例えばの話で」
 私の握り拳に手を重ねたまま、黒岩双葉はやっと私から視線を外して考え込むように足下を見つめた。
「浮気って、俺とつきあったまま他の人とってことだろ? 薫子は浮気するくらいなら先に別れようとする気がする」
 考えたわりにはつまらない答えが返ってきた。面白い答えがあるわけでもないけど。
「薫子は? 俺が浮気したらどうする?」
 興味津々の顔で訊かれてうんざりしながら私は即答した。
「すぐに別れて気が済むまで復讐する」
「い、一回くらいは許すとかそういう選択肢は」
「ない」
「……そっか。あ、べ、別に浮気したいとかじゃねえからな!」
 黒岩双葉はいらない弁解をしてへらっと笑った。
 私、なんで黒岩双葉とこんなところでこんなどうでもいい会話をしているんだろう。
 思わず仰いだ空は、金木犀のにおいと混じっていつの間にかすっかり秋の色になっていた。


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