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 土曜日、目が覚めたのは黒岩双葉がうちの呼び鈴を鳴らした直後だった。


  07.大嫌い=大好き


「おはよ……う」
 だぼっとしたジーンズに緑のTシャツ姿の黒岩双葉は、ドアを開けたパジャマ姿の私を見てさわやかに挨拶をするのに失敗した。
「……もしかして、寝てた?」
「……ん」
 まだちゃんと開かない目をこすりながら頷いた。
 強引に決められた勉強会。土曜日は朝から家に私一人になると知った黒岩双葉が、午後からにしようという私の主張を無視して朝の九時にうちに来ると言い張った結果がこれだ。
「えと、俺外で待ってたほうがいい?」
「なんで。早く上がれば」
 大あくびをしながら促すと黒岩双葉は戸惑うように頷いた。
「う、うん、じゃあ、お邪魔します」
 玄関を入ってすぐ右側が私の部屋。
 ドアを開けて私はふらふらと外の通路に面した窓際に置いてある、布団がぐちゃぐちゃになったままのマットレスに倒れ込んだ。
 少し遅れて部屋に入ってきた黒岩双葉が「うわ」と声を上げたのを遠くで聞いた。


 巨大化したゴリラのぬいぐるみのゴーくんに食べられそうになったところで目が覚めた。
 勢いよく起き上がったら視界の端で何かが動いた。
「あ、おはよう」
 黒岩双葉が私の部屋の真ん中で所在なげにあぐらをかいて座っていた。しかも私のほうを向いて。
 悪夢の続きかと思いかけて今度こそ本当に目が覚めた。
 慌てて枕元に置いてあった携帯をつかんで時間を確認する。十時三十五分、ということは一時間半も黒岩双葉に寝姿をさらしてしまったのか。
「顔、洗ってくる」
「行ってらっしゃい」
 私の部屋なのに黒岩双葉に見送られるという屈辱を受けながら部屋を出た。
 洗面所で鏡を見て、寝癖だらけの髪と寝起きのひどい顔に、いよいよ黒岩双葉のほうから別れ話を切り出されるかもしれないと思った。
 急いで歯を磨いて顔を洗う。相変わらず頑固な寝癖はちょっと水をつけたくらいじゃ直りそうになかったから諦めた。
 パジャマも着替えたかったけど部屋から着替えを持ってくるのを忘れた。どうせ今日は出かける予定もないし、黒岩双葉にも思いきり見せてしまったからこのままでいいや。
 投げやりに考えて部屋に戻ったら笑顔の黒岩双葉に「お帰り」と迎えられて暴れ回りたくなった。
 昨夜引っ張り出してきた、普段はしまい込んでいる折りたたみ式の白い丸テーブルを広げて置くと、黒岩双葉はやっと少し落ち着いたようだった。
 黒岩双葉の向かいに嫌々腰を下ろした。黒岩双葉には私越しに丸見えになっている背後のマットレスの上の乱れた布団を直す気力もない。
 黒岩双葉用にせっかく用意した座布団は使われていなくて私のお気に入りの黄色いクッションが黒岩双葉のお尻の下にあって泣きたくなった。午後からにしていればちゃんと全部準備を終えられたし寝姿を見られることもなかったのに。
 私の恨みのこもった視線に気づくことなく黒岩双葉は鼻歌を歌いながら黒いリュックの中から勉強道具を取り出してテーブルに並べた。
「私が寝てる間勉強しなかったの?」
「え!?」
 何気なく訊いたら黒岩双葉は大げさにうろたえた。
「いや、何か、ちょっとしたんだけどあんま集中できなくて」
 あやしすぎる。
「まさか部屋のもの、勝手にいじったりは」
「あ、それは大丈夫! 部屋のもんには何も触ってねえから! そ、それよりもぬいぐるみ、多いな」
 あからさまに話を逸らされたけど、部屋をいじられていないならそれ以上追及するようなことはないだろう。キャサリンは変なことを言っていたけどいくら黒岩双葉でも寝ている、しかもそういうことをする気はないとはっきり言った相手の唇を奪うような卑怯なことはしないだろうし。
「何個くらいあんの?」
 睡魔に負ける直前に聞いた驚いたような声は、やっぱりぬいぐるみだらけの部屋を見てのことだったらしい。
「三十個しかないよ」
 確かに部屋はぬいぐるみたちで囲まれているけど一番大きいイルカのウミスケでも腕に抱えられるくらいの大きさで、ほとんどは手に乗るような小さなものだ。
「もしかして全部に名前つけてたりとか」
「だって名前ないと出席とれないし」
「出席?」
 言わなくてもいいことを言ってしまった。
「……学校ごっこするときに」
「薫子が先生?」
「……うん」
 頷くと黒岩双葉は肩を震わせ始めた。
「そ、想像したらすっげえかわいい。くくくっ」
 バカにされてるみたいで本当に嬉くない。
 私はテーブルの右側にある机の下に置いてあった鞄を引っ張り寄せて中から教科書とノートを出して開いた。
 せっかくだからこの時間で英語の予習と国語の宿題を終わらせてしまおう。
 私がシャーペンを動かし始めると黒岩双葉も真面目に勉強する気になったようだった。

 ぐう、と間抜けな音がシャーペンの走る音や紙のこすれる音に混じって響いた。そういえば朝ごはんを食べていなかった。
 腹が立つくらい軽快に動いていた黒岩双葉の手が止まった。
「あ、もう十二時過ぎてんのか」
 さっきからノートに落書きするのに忙しかった私の手も腹の虫によって止まっていた。
 これで苦痛な勉強会もおしまいだ。お昼は昨夜の残りのシチューが冷蔵庫に入っているはずだからそれを食べよう。
「弁当食べよ」
 よだれが垂れそうになりながらお昼のことを考えていた私は、黒岩双葉の言葉の意味を理解したくなくて聞こえないふりをした。
「昨日から準備して作ってきたんだ。じゃじゃーん!」
 でも目の前で黒岩双葉が、リュックから取り出したお弁当箱二つとアルミホイルに包まれたおにぎりと思われる固まり四つを、勉強道具を片づけたテーブルの上に勝手に並べてしまって意味がなかった。
 黒岩双葉は、午後もここでこの勉強会を続けるつもりだ。
「はい、これが薫子の分」
 赤いハンカチに包まれたお弁当箱とおにぎり二つが私の前に。
「あと、お茶も」
 黒岩双葉はリュックから携帯マグを二つ取り出して片方を私の前に置いた。
「それじゃあ、いただきます」
 黒岩双葉につられて私も手を合わせた。
 少しだけわくわくしながらハンカチをほどいて大きめのお弁当箱のふたを開けた。
 唐揚げにウィンナーに玉子焼き、ポテトサラダとほうれん草のゴマ和え、プチトマト、きんぴらごぼう、かぼちゃの煮物、アスパラベーコン巻き、それに小さいハンバーグまでぎっちりつまっている。私は思わずつばを飲み込んだ。
「おにぎりの具は鮭とツナマヨ。薫子の好きなものとかわかんなかったから色々入れてみたけど何か嫌いなのとかある?」
「……プチトマト」
「じゃあ、それは俺がもらう」
 ひょいとお箸が伸びてきてプチトマトは黒岩双葉の口の中へ。プチトマトの最期を見届けてから私はまたお弁当に視線を落とした。
 黒岩双葉の手作りというのが引っかかるけど、正直ものすごくおいしそうで空腹にも勝てそうにない。私は意を決して玉子焼きを口に入れた。
 黒岩双葉の手作り弁当は、悔しいけどどれもおいしかった。玉子焼きの甘さもおにぎりの塩加減も実に私好みで、それをつい黒岩双葉にもらしてしまったらまたあの口癖を言われた。
 それなりに人気があって私好みの料理を作れて私のことを好きになってくれて、これが黒岩双葉じゃなかったらキャサリンがうらやむ通りの状況なのに、どうして黒岩双葉は黒岩双葉なんだろう。
 最後の一口はハンバーグで締めた。すでにおなかはいっぱいを大分通り越していたところだった。
「ごちそさまでした」
 声を出した瞬間つめ込んだものたちが戻ってきそうになって口を押さえた。お茶を流し込んでどうにか一息ついた。
「ごめん、ちょっと量多かったかも。張り切って作りすぎた」
 ちょっとどころじゃない。
「無理に全部食べなくてもよかったのに」
 残してはいけないと刷り込まれた給食とは違うとわかっていたけど、どうしても残せなかった。
「おいしかったから」
 そう告げると黒岩双葉は嬉しそうに笑った。
「もうちょっと休憩したらまた勉強しよ」
 あまりの苦しさに抱えたウミスケにもたれかかるようにして目を閉じていた私は、黒岩双葉が動く気配にまぶたを持ち上げた。
 テーブルの向かいにいた黒岩双葉がテーブルの左側にいた。
「何?」
「う、あ、いや、また寝ちゃったのかと思って」
 何故かそこからさらにずれて私の左隣に来た黒岩双葉はわたしのほうを向いて正座した。
 ウミスケを抱えている腕に力が入る。
「薫子」
「……何?」
「えーと、薫子のとこも仕事? 家の人」
 へらっとのん気に笑う黒岩双葉が、私はやっぱり大嫌いだった。
「愛人のとこ」
 黒岩双葉の笑顔がかたまった。
「え、えーと……」
 黒岩双葉を困らせてやったことに少し満足して私は黒岩双葉に向けていた顔を腕の中のウミスケに向けた。丸い瞳が私を見つめていた。
「……俺、話聞くくらいならできるから。傍にいるから」
 同情。されたのかもしれない。偽善者の黒岩双葉はこれでますます私をつきはなせなくなったはず。
「だから、泣くの我慢しなくていい」
 何を言ってるんだこいつ。
 視線を動かしたら涙がぽたっと落ちて、黒岩双葉が指摘した通り目に涙がたまっていたことに気づいた。
「目にゴミが入っただけ」
 パジャマの袖で涙を拭った。涙はそれ以上落ちてこなかった。
 おなかはまだ苦しかったけどウミスケを脇に置いてシャーペンを握りしめて落書きの続きを始めた。
 黒岩双葉はもう何も言わずに自分の場所に戻って私のお気に入りのクッションをお尻で踏んだ。

 ノートの端のただの落書きが二ページ分を使った大作になるまで勉強会は続いた。黒岩双葉は終始無言だったから私も黒岩双葉の存在をないことにできた。
 おじさんもおばさんも明日の夜までは帰ってこないらしいから時間を気にすることも忘れていた。
 黒岩双葉が大きく伸びをしたときにはすでに五時を過ぎていた。
「くーっ、こんなに集中できたの久しぶりかも」
 黒岩双葉の視線が私のノートに向かった。
 慌てて腕で隠そうとしたけど間に合わなかった。
「おお、すげ、何それ」
「……ぬいぐるみ大運動会」
 この部屋にあるぬいぐるみたちで運動会をしたらどうなるか、落書きのつもりがかなり本格的に考えてしまった。
「あは、かわいい。このイルカはそれか」
 玉入れに参加しているウミスケと私の隣にいるウミスケを見比べて黒岩双葉は笑った。
 しばらく私の力作で主に黒岩双葉が盛り上がった後、黒岩双葉はやっと帰り支度を始めた。
 晩ごはんは朝とお昼に食べ損ねたシチュー。おばさんが置いていったご飯代、浮いた分は貯金箱に入れてしまおうか。
 そんなことを考えながら黒岩双葉を一応見送るために私も部屋を出た。
「今日は楽しかった。また一緒に勉強しような!」
「うん」
 適当に頷いて靴を履く黒岩双葉を見つめる。
 休みの日に一日中一緒にいることになるなんて。お弁当がなかったら耐えられなかったかもしれない。
「じゃあ、また明日、じゃなくて月曜日に」
 黒岩双葉がドアを開ける。
「うん、バイバイ」
 適当に手を振って開いたドアが閉まるのを見つめる。
 やけに大きな音を立ててドアは閉まった。すぐに鍵をかけて自分の部屋に戻る。
 ぬいぐるみに囲まれた見慣れた狭い部屋。狭いから滅多に出さない丸テーブルと、黒岩双葉につぶされたお気に入りのクッションのせいで、さっきまでこの部屋に黒岩双葉がいたという現実をつきつけられる。
 クッションのカバー、洗濯しないと。テーブルもさっさと片づけて。
 黒岩双葉に握られる右手にその感触がよみがえって、テーブルに伸ばしかけたのを引っ込めた。
 やっと一人になれたのに、黒岩双葉の気配が消えない。私の体にもずっと残ってる。
 これから楽しい一人遊びの時間になるはずなのに、黒岩双葉のせいで楽しい気持ちになれない。やっぱりやめておけばよかった。黒岩双葉とつきあうなんて。
 黒岩双葉の気配を少しでも追い払おうと窓を開けようとしたところで呼び鈴が鳴った。
 まさか忘れ物をしたとかで黒岩双葉が戻ってきたんじゃないだろうなと思ったら本当にそうだった。
「家の鍵、薫子の部屋に落としたっぽい」
「……見てくる」
 照れくさそうに笑う黒岩双葉を玄関で待たせて黒岩双葉が座っていた周辺を探す。
 クッションを持ち上げたらすぐに見つかった。木のプレートのキーホルダーがついた鍵。キーホルダーには黒岩双葉のイニシャルが彫ってある。
 これを渡したら部屋の掃除をしてお風呂に入ろう。家の中では脳内じゃなくてぬいぐるみたちとごっこ遊びができる。今日は夜更かしして、絵に描いたみたいに大運動会をするのもいいかもしれない。
 やっと楽しい気持ちになって玄関に戻った。黒岩双葉の顔を見た途端せっかくふくらませた気持ちはあっという間にしぼんでしまった。
「あった?」
「うん」
「よかったあ」
 黒岩双葉が差し出した右手に鍵を乗せる直前で私の手が止まった。
「薫子?」
 持ち上げていた手を下ろした。
「やめる」
 今がそのタイミングなんだ。ずっと待ち望んでいたそのときは今なんだ。今じゃなくても今だということにする。
「何を?」
「つきあうの、もうやめる」
 黒岩双葉は困ったように、それでもまだ笑顔を浮かべていた。
「私、本当は全然好きじゃなかった。黒岩くんのこと、大嫌いだから」
「なんで?」
 傷ついた様子もなく訊かれてやっぱりダメージを与える方法を間違えたのだと思い知った。
「偽善者なところもいつもへらへら笑ってるところも、俺超幸せとか平気で言えちゃうところも、強引なところも勘違いばっかりなところも何もかも全部大嫌い」
「うん」
 黒岩双葉の右手が伸びてきて、避ける間もなく目元を拭われた。
 どうして黒岩双葉は笑っているの。
 どうして私は、泣いているの。
「今日だって、本当はこれから大運動会ですごく楽しくなるはずだったのに、黒岩くんのせいで」
「双葉」
「……黒岩くんのせいだもん全部! 一人遊びうまくできなくなっちゃうし、私の部屋なのに、私の部屋じゃないみたいになって」
「わかった!」
 笑顔をキラキラさせた黒岩双葉に、私は後ずさりそうになった。
「な、何」
「寂しくなっちゃったんだ薫子」
「は!?」
 別れ話をしているのに何なんだこいつ。
「そっかそっか。何か嬉しい」
「だから、大嫌いだって――」
「薫子の大嫌いは、大好きって聞こえる」
 キラキラ笑顔で言われてもうだめだと思った。黒岩双葉には何を言っても通じない。
「あ、そうだ」
 黒岩双葉は背負っていたリュックを下ろすとしゃがみ込み中をあさり始めた。
 動きを止めて立ち上がった黒岩双葉の手には、黒いシャーペンがあった。今日一日黒岩双葉が軽快に動かしていたシャーペンだった。
「これ、中学に入ってからずっと使ってるやつ。俺だと思って持ってて」
「い、いらない」
「これならずっと一緒にいられる。はい」
 鍵を握りしめていた右手をとられて、鍵の代わりに無理やりシャーペンを握らされた。
「やっぱ、何が何でも携帯買ってもらう。メールするだけでも寂しさが紛れるだろうし。うん」
 一人で納得して一人で決意した黒岩双葉は、しばらく一緒にいようという恐ろしい提案をしてきたけど私が固辞すると残念そうにしつつも諦めて去っていった。
 私はシャーペンを握りしめたまま、どうしたら黒岩双葉と別れられるかを考えていた。

 黒岩双葉の怨念がこもっていそうな使い込まれたシャーペンはすぐにでも捨てたかったけどものに罪はないと思い直した。消しゴム戦争もそろそろ飽きてきて次は文房具戦争をしようと思っていたところだ。こいつもシャーペン軍の一員として迎えてやろう。
 出しっぱなしのテーブルに置いたシャーペンを人差し指でつつく。
 これが黒岩双葉の代わり。そう考えると鳥肌が立つからこれは過去黒岩双葉にちょっとお世話になっていただけのシャーペンだと思おう。
 それにしても黒岩双葉はどうしてあんな自分に都合のいい勘違いができるんだろう。
 お腹が盛大に鳴って私は我に返った。晩ごはんも食べずに黒岩双葉のことばかり考えていた自分が許せなくて、汚れてしまったお気に入りのクッションに八つ当たりしようとして寸前でやめた。ものに罪はない。悪いのは全部黒岩双葉。


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