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 同情のほうがずっとましだ。
 熱い頭が一気に冷めた。


   10.水の底に沈める - 04 -


「うそ、じゃなくて。本当です」
 最低だ。神くんも、そういう人だったんだ。優しくしてもらって怖かったけど嬉しくて。本当に嬉しかったのに。
「そういう冗談、やめて」
 溢れた言葉、声が掠れてしまってうまく出せなかったけど神くんにはちゃんと聞こえたはず。
「え、坂口さん?」
「馬鹿に、しないでよ」
 だってわたしは、最低の人間で。
(誰よりも汚くて)
「誰かに好きになってもらえるような人間じゃないって、自分が一番よくわかってる」
 今度は泣いたら余計に惨めになるだけだってわかっていたから、ぎゅって我慢した。
「最低だよ神くん」
 いつもは言えないようなことが勝手に口から出てくる。
「神くんなんて、大きら」
 突然口を大きなものに塞がれた。大きくて、温かいもの。

「本心じゃなくても、坂口さんの口からそういうこと言わないで」

 目の前に神くんの綺麗な目があった。
「なんか変な勘違いしてるみたいだけど、冗談で告白するほど俺も暇じゃないし、こんなことで人のことをからかって喜ぶほどガキでもない」
 温かいの、どんどん熱くなっていく。
 近すぎる神くんの目から逃げられなくて、じっと見つめ返すことしかできなかった。
「わかった?」
 そう訊かれたらわたしは頷くしかなくて。
 神くんの顔と、わたしの口を塞いでいたものが離れていった。
(神くんの右手)
 とっさに手の甲で唇を押さえた。
 うそ。うそ。うそ。神くんの手。ずっと見てるだけで、それだけで幸せだった。それだけで十分なのだと自分に言い聞かせていた。触れることも触れられることも夢の中で想像するだけのはずだった。
「あ、う」
 意味のない声が漏れた。さっきからずっとおかしい。心臓が痛くて。
(好きって言った。神くんが)
 好きは、嫌いの反対。
「それにしてもなんで気がつかないかな。思い切りばればれな感じの態度とってたし、宗太郎と同じ人を好きだって言った時点で確実にわかったと思ってたんだけど」
 神くん、怖い。心臓が壊れそうになるようなこと、さらっと言う。
「宗太郎さんは、違う。わたしのこと、嫌いだって」
「宗太郎が一番好きなものに描いたのは坂口さんだよ」
 追い詰められてる感じがする。
 逃げ場、どんどんなくなっていく。
「だって、嫌いって、言ったもん」
「あー、あれは好きな子をついつい苛めちゃうとか、そういうレベルのことで」
 嘘だ。嘘じゃないといけない。こんなこと、現実にあったら駄目だ。
「だって、神くんの好きな人、凄く強い人って、それは誰」
「坂口さん以外に誰かいる?」
 綺麗な笑顔、浮かべたままそういうふうに言うの、神くんはもしかしなくても意地悪だ。
「わたしじゃない。わたしは強くない」
「強いよ」
 当たり前のように言い放って、神くんが笑うのと反対にわたしはもっと泣いてしまいそうになる。
「なんで。どこ、が。違う。違う。わたしじゃなくて、あ、神くん、一年前に会ったって、わたしは、同じクラスになるまで神くんのこと知らなかった」
 逃げ口、一つ見つけて焦って早口になった。
「前に会ってるよ。あのとき坂口さん凄く慌ててたみたいだから覚えてないのも無理ないけど」
 どうしよう。どうしよう。
「神くん、は、優しい人で。だから、わたしにも優しくしてくれた、だけで」
「ん、好きな人には、少しはいいところを見せておきたかったから」
「誰にでも、優しくて」
「あのね坂口さん、俺は凄く打算的で、誰にでも優しくできるほどできた人間じゃないよ」
「だって、優しいよ」
「だから、坂口さんは特別なんです」
 自分で何喋ってるのかわからない。神くんに変なこと言われて、心臓が壊れそうなくらい速く動いていて、息がうまくできなくて。
「で、俺が本気だって信じてくれた?」
 神くんに言われたこと、どうやっても理解できなくて首だけ横に振った。
 そうしたら神くんがうーんって少し唸って、一言。

「じゃあ、行動で示そうか?」

 こんなにたくさん神くんの顔を見たのは初めてだ。神くんの目をちゃんと見たままたくさん話したのも。目、逸らしたくても逸らせなくて。
「でもそうすると坂口さんまた泣いちゃいそう」
 一歩、神くんがわたしのほうに近づいた。
「や……」
 後ろに下がったら背中が戸にぶつかってそれ以上行けなかった。
 神くんがわたしの知らない顔をしていてさっきとは違う怖い感じがした。
 別に怒ってるわけじゃなくて笑顔なのに、今までの笑顔とは違って見えて。
「口で言ってわからないなら、例えばキス、とかしたら信じてくれる?」
 きす。
(キス)
「や、だ、うそ、いや」
 神くんが、本気だとか本気じゃないとかそういうことは関係なくて、近すぎるこの距離が怖い。
 ずっと見ていた神くんの顔から無理やり視線をずらして下を向いて、思い切り目を閉じた。
 やだって、まるで呪文みたいに何回も繰り返し呟いていた。

「ごめん、苛めすぎた」

 声と一緒に神くんが少し離れた感じがして、息を大きく吸い込んだ。
 何が起こったのかよくわからない。溝口先生に荷物を運ぶのを頼まれて、何故か神くんも一緒で、それで、わたしが神くんを怒らせて。
 それ以上のことはうまく考えられなかった。考えちゃいけないって全身が拒否してる感じがした。
「そろそろ帰ろうか」
 神くんが言って鍵を開けて資料室から出た。狭い空間に二人きりだったのからやっと解放されてもまだ閉じ込められてる感じがする。
 神くんは鍵を溝口先生のところに戻しに行って、わたしは教室に置いてきたリュックを取りに行った。足元はふわふわしてて手はずっと震えたままだった。
 一緒に帰ろうっていう神くんの声は空耳だと思ったのに、靴箱のところに行ったら神くんが本当に待っていて逃げたくなった。でも逃げられない。下校ラッシュの時間は過ぎていて、周りに学校の人があまりいないのだけが救いだった。
 隣に並んだらきっとうまく歩けないからわたしは神くんの少し後ろを歩いた。神くんはわたしの前を黙ったまま歩いていた。
 ずっと足元を見て歩いていたら急に右腕を引っ張られた。
「信号、赤」
 周り、見えてなかったから車の流れに突っ込みそうになっていて。
「ごめ、ん。ありがとう」
 制服越しなのに神くんの体温を感じた。神くんの手はすぐに離れても残った感触はなかなか離れない。
「可愛いね」
 唐突過ぎるのと、誰に向けて言ったのかすぐにわからなかったのとで、反応が遅れた。
「え」
「真っ赤になって動揺して、泣きそうになって」
「なん、で、そういうこと、言うの」
「好きで好きでたまらないから」
 首、絞められてるのかと思った。
 息、本気でできない。どうしよう。頭に血が上って自分がここにいる感覚がおかしくなってる。
 聞き間違いじゃなかったら、今もの凄いことを言われた。
「伊織って呼びたい。手、繋ぎたい。キスしたい。抱き締めたい。ずっと思ってたし今も思ってる。一年見てるだけだったのは、いきなり近づいて坂口さんに逃げられるのが怖かったから。でもきっかけができた。色々と手間取ったけどやっと捕まえた。もう、逃がすつもりはないから」
 頭が破裂しそうになって、右手が温かいものに包まれた感じがした。信号が青になったのを見てから手に視線を向けたら、わたしのじゃない手がわたしの右手を握っていた。神くんの左手だと気づく前に引っ張られるみたいにして横断歩道を渡っていた。
 商店街を歩く。手を繋いで。神くんと。
 右手、熱くて火傷しそうだと思った。
 知ってる人に見られたらどうしようとかそんなことも気にする余裕はなくて、よくわからない涙が出そうになったけど必死に堪えた。



「ちゅうしたら、本当にどうなっちゃうのかなとか、凄く思う。手繋いだだけでこんなになっちゃうんだもん」
 駅に着いてやっと手が離れたのに。
 溺れてる感じに似てる。もがいてももがいても息ができなくて水から抜け出せない。
「そういうこと、言ったりするの、もうやめて。迷惑、だから」
「だって、はっきり言わないと坂口さんはわかってくれないでしょ」
 そんなこと、言われてもどうしたらいいかわからない。神くんの言ってることの意味だってまだちゃんと理解できない。
「無理、です」
「ん?」
「今は、やめて。今は無理なの。何も、考えられなくて。神くん、怖くて。だから」



 気がついたら一人で駅のホームに立っていた。神くんがまた明日って言って電車を降りた記憶だけ微かにあった。
 駅から家までの道を歩いている間もずっと夢の中にいるみたいに変な感じがした。
 神くんに言われたことの意味、ちゃんとわかってしまったらわたしはどうなってしまうのか考えるととても怖い。
 自分を守るためには嫌なことから逃げるとか、自分以外のものを否定するとかそういうことしか思いつかなくて、だから今も逃げている。
(卑怯者)
 家に着く数メートル手前でリュックを肩から下ろして家の鍵を取り出した。
 鍵を握り締めて自分の足元を見ながらずっとベッドのことを思い浮かべる。
(これは夢で寝て起きたら現実に戻れるかもしれない)

「遅い」

 何かを考える前に反射的に顔を上げたら、黒縁眼鏡をかけた見たことのある男の人がわたしの家のドアに寄り掛かって立っていた。

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