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 うつせみ 12

 クーラーで冷えた空気に剥き出しになった肌を撫でられた。きっと鳥肌が立っている。手も視線も動かせなかった。宗太郎さんには何が見えているのかなんて怖くて確認できない。一瞬でいいって言ったのに、全然一瞬じゃない。
 水着と思っても無理だ。だってわたしこんな水着着ない。スクール水着しか着たことない。
 宗太郎さんは何も言わなくて、沈黙も怖くて目を閉じた。なんでこんなことになってるの。
「宗太郎、風呂」
 どれくらい経ったのかわからない。突然神くんの声が降ってきて宗太郎さんの手がわたしの手からどいた。空気が動いてベッドが軋む。
 目を開けた。さっきまで宗太郎さんがいたところに神くんがいた。Tシャツに短パン姿で肩にタオルをかけていて、髪は濡れていて、頬もちょっと赤くてお風呂上がりの神くん。
「風呂、急いで出てよかった」
 初めて見るお風呂上がりの神くんに気を取られて、神くんが言ったことの意味がわかるのに時間がかかった。
 わたし、今パジャマの前を広げていて、宗太郎さんに手ごと広げられて、宗太郎さんの手はなくなったけどそのままで動かなくて。神くんにも見えてる。神くんにも見られてる。
 顔に集まった熱が涙になって神くんの笑顔が滲んだ。
「大丈夫だから、手、開いて」
 やさしい声と一緒に神くんがわたしの手に触った。一瞬もっと力が入ったけどその後はすぐに緩んで、やっとパジャマから手が外れた。外れた手は重力に任せて横に落ちた。
 早く、ボタンを留めないと。
 落ちた手を持ち上げたけど、力の入れ方を忘れてしまったわたしの手はボタンを留められなかったから、わたしの手の代わりに神くんの手がパジャマのボタンを留めてくれた。
「ありがとう、変なもの、見せてごめん」
 見せるはずじゃなかった神くんにも見せてしまった。恥ずかしいは通り越して、でもすぐに一周して戻ってきてやっぱり恥ずかしかった。
「変なものじゃないし、そもそも宗太郎のせいでこんなことになったのはわかってる。坂口さんが謝ることじゃないよ」
「い、今の全部、忘れ――」
「やだ」
 一言。わたしが全部言う前に即答されて思わず視線を持ち上げたら、いたずらっ子みたいな神くんの笑顔があった。嫌なもの見たって顔じゃないのは確かで、それだけで十分だった。
 見られたこと、わたしは忘れよう。忘れられないけど忘れないと、二人の前でもっと普通じゃいられなくなる。
 そう決めて、神くんの濡れた前髪から雫が一滴落ちていくのを見た。
「水も滴るいい男、だね」
 何もなかったことにしたいけど、すぐにはできなくて心臓が暴れすぎて息をするのも苦しいくらい。
 目の前にいる神くんは違う世界の人みたいで、テレビの画面を見ている気持ちになって、だからどこかでは冷静でいられた。だから恥ずかしいことを言ってしまったって気づいても、神くんを見ていられた。
「坂口さんには、そう見える?」
「うん」
 わたしじゃなくても、そう見える。
「ありがとう」
 神くんの右手がわたしのほうに伸びてきた。頭を撫でられた。違う世界の人じゃなくなった。息が。
 わたしの頭を撫でたてのひらが、頬に触れる。温かい。熱い。
「どきどき、する?」
「う、ん」
 好きな人に見られて触られて、どきどきしないなんて無理だよ神くん。
「俺も坂口さんと一緒」
「神くんも、どきどきしてるの?」
「ん、してる」
 いつもと変わらない、きれいな笑顔。
 触りたくなって、その欲に逆らえなくて何も考えずに右手を神くんに伸ばした。濡れた髪に指先が触れた。
 神くんが嫌がる気配はない。
 受け入れてもらっている。わたしを。
「その顔は嬉しいから? それとも悲しいから?」
「嬉しい、から」
 わたしが変な顔をしても神くんは目を逸らさない。
「坂口さん」
 神くんの両手に顔を挟まれて慌てて右手を下ろした。一瞬怒られるって思ったけど神くんは笑っていた。
「目、閉じて」
 言われるまま、まぶたも下ろした。
「そうやって言う通りにしちゃうから宗太郎も俺も調子に乗るんだよ」
 唇に息がかかった。神くんの。それくらい近くに神くんの顔があって、目を開ける前に息ができなくなった。
 深く合わさった口の中を乱暴に蠢くものから逃げたかった。逃げないといけないと思った。逃げようとする以外に、どうすればいいのかわからないから。
 数秒なのか数分なのかわからないうちに神くんが離れた。離れた瞬間吐き出した息を大きく吸い込んだ。
 神くんに抱き締められて吸い込んだ息を吐き出せなかった。
「二十歳まで、待てなかったらごめん」
 耳元で囁かれた。背中から首にかけて何かが這い上がってくる感じがして鳥肌が立った。神くんの声、好き。神くんの声も宗太郎さんの声も、わたしの耳の一番心地いいところで響いて体中を巡る。言われたことの意味は考えない。考えたらいけない。
「夕飯の支度の続き、してくる」
 パジャマ越しに感じていた神くんの体温がなくなる。神くんが立ち上がってやっと息を吐いた。

 体重今日で絶対いっぱい増えた。
 神くんの手作りコロッケはおいしくないわけなかった。
「神くんは、神くんの作ったものを毎日食べられて羨ましい」
 ごちそうさまの後、思わず変なことを言ってしまった。
「坂口さんだって食べたければ毎日食べられるよ」
「え?」
「坂口さんの食べたいもの、いつでもなんでも作る」
 やさしい笑顔とやさしい言葉。わたしに向けてくれる。
「あ……りが、と」
 神くんが後片づけをしている間、宗太郎さんは漫画雑誌を読んでいて、わたしは日記を書くことにした。日記帳は持ってきてないから、リュックに入れていたメモ帳に書いて帰ったら日記帳に写そう。
 書くことがいっぱい。おいしい料理、神くんと宗太郎さんがくれたプレゼント、近所のコンビニだけど三人で初めて出かけたり。恥ずかしいことも、たくさんあったけど全部幸せな記憶。
 宗太郎さんから見えないように、リュックを膝の上に立てて壁を作る。
「何書いてんの」
 宗太郎さんに声をかけられて心臓が跳ねる。
「……日記」
 言うか迷って言った。見せてって言われたら困る。でも宗太郎さんは何も言わなくて会話はそれで終わった。
 ほっとして続きを書く。
「坂口さん」
 集中して書いていたら両肩にぽんと手を置かれて声にならない声がのどのところをぐるぐるした。
 メモ帳を抱き締めて見えないようにして少しだけ振り返る。
「な、何?」
 台所から戻ってきた神くんがわたしの後ろにいた。
「何してんの?」
 神くんが腰を下ろしてわたしが抱き締めているメモ帳に目を向けた。
「日記だって」
 わたしが答える前に宗太郎さんが答えた。
「坂口さん日記つけてるんだ。見たい」
「だ、駄目! 絶対駄目!」
 嬉しかったことも恥ずかしかったことも、全部書いてしまった。
「そう言われると余計に見たくなる」
「本当に駄目!」
「そんなに必死な坂口さん、珍しい」
 神くんは笑ってわたしの頭を撫でた。からかわれたんだって、やっと気づいた。
 二人の前で二人のことばかりの日記はそれ以上書けなかった。
 メモ帳をしまってから、神くんが買った飲み物やお菓子をつまみながらまた三人でトランプをした。七並べにポーカー、大富豪。ルールがわからないのはわかりやすく教えてもらった。罰ゲームはなしになった。わたしは一回も二人に勝てなかったけど楽しかった。
 いつの間にか十時を過ぎていた。
「坂口さんいつも何時くらいに寝る?」
「十一時くらい」
「じゃあまだ大丈夫だね」
 トランプを片づけて、次は何をするのかなって神くんを見ていたら立ち上がった。
「ちょっと、夜の散歩に行ってきます。三十分で戻るから」
 わたしを見て、それから宗太郎さんに向かって言った。
「ん」
 神くんが出ていくと宗太郎さんも立ち上がった。ベッドに腰かけて手招き。わたしに。
「な、何?」
「こっち来て」
 なんだろう。心臓がぎゅっと握られているみたいになる。行きたくない。でも。
「来い」
 テーブルの右側を通ってベッドの前へ。
「本当はお互い見てないところでなんかされるよりも、全部見てたほうがいい。俺たちは」
 宗太郎さんが何を言いたいのかわからなくて余計に落ち着かなくなる。
「でもあんたはそうじゃないから。今日はあんたが嫌なことはあんましたくないから」
 手を、掴まれた。
 目を、合わせてしまった。
「あ、の」
 脚が震える。
 掴まれた手を引っ張られて宗太郎さんの正面に。見下ろすわたしと見上げる宗太郎さん。合わせた目は逸らせなくてでも閉じることもできなくて息が詰まる。
 宗太郎さんに見られている。顔が熱い。手も熱い。
「髪、触らせて」
 無理なこと言われるかと思ったけど大丈夫だった。
 髪を乾かしてもらったときと同じように、宗太郎さんの隣に斜めに腰かけた。
 宗太郎さんに髪を触られるの、気持ちいい。時々首や耳に手が触れて、そういうのもくすぐったいけど気持ちいい。
 宗太郎さんの手が背中で動く。何してるのかなって思ったらいつの間にかおさげが一本できていた。
 首回りのうっとうしさがなくなる。
「結ぶと、すっきりして涼しい」
 三つ編みを触ろうとしたら抱き締められた。後ろから。
 息をのみ込んだ。
 宗太郎さんの温かさと重さを感じながら目を閉じる。宗太郎さんは何も言わなくて、わたしも何も言えなくて、嬉しいのと怖いのと恥ずかしいのと、ぐちゃぐちゃになった感情が行き場をなくしてわたしの中を回り続けた。
 時々宗太郎さんが腕や体を動かす度に、わたしの心臓も大きく跳ねる。
 幸せって、思うのに、今、この瞬間確かにあるはずなのに見えなくて、掴めない。掴めたと思った瞬間から消えていく。
「伊織」
 わたしが余計なことを考え始めたのを止めるように、宗太郎さんが呼んだ。わたしの名前。大切に、呼んでくれてるのがわたしでもわかる。見えなくても掴めなくても、どうでもよくなった。
(宗太郎さん)
 宗太郎さんのことだけを考える。考えて、体中で宗太郎さんを感じて、神くんが戻ってくるまで、ずっとそうしていた。
 神くんと入れ替わりで今度は宗太郎さんが散歩に行った。ベッドに座っていたわたしの右隣。さっきまで宗太郎さんがいたところに神くんが座って宗太郎さんに結んでもらった三つ編みを手に取った。
「髪、結んだんだ。可愛い」
「あ、ありがとう。宗太郎さんが、やってくれた」
「宗太郎と、何してた?」
「髪、結んでもらって、後は、別に、何も」
 嘘。少し吐いた。何かしていたわけじゃないけど何もしていなかったわけでもない。宗太郎さんの体温を感じていた。
 言うのも言わないのも、どっちも難しい。抱き締められていたなんて、言えない。でも。
「そう」
 神くんのきれいな笑顔に見惚れた。それから、神くんはわたしが言わなくても気づいてるんだろうって思った。そういう笑顔だって、なんとなく思った。
「ごめん」
 嘘を吐いたこと。してはいけないことをしていること。神くんと宗太郎さんがしているという覚悟を、わたしはできていないこと。
 謝ったら、髪を結んで涼しくなった首筋を撫でられた。
「な、何」
 びっくりして、くすぐったくて撫でられたところを押さえた。
「両手、貸して」
 言われた通りに両手を神くんのほうに差し出したら神くんの両手に握られた。体が勝手に過剰に反応する。
「あ、の」
「遠足のときの穴埋め、今して」
 顔を上げた。神くんと目が合った。逸らしたらいけない。こんなことでいいのかわからないけど穴埋め、だから。
 神くんの目も手もやさしい。それなのに逃げたくなる。でも逃げちゃ駄目。
 言葉はなかった。何も。手を握り合って、目を見つめ合って、それで全部いっぱいになる。
 わたしを見て。わたしを見ないで。矛盾した感情は混じってどっちでもよくなった。見られることが怖いって思う気持ちは、神くんの熱に追いやられて少しずつ見えなくなる。
 息苦しい。
 心地いい。
 熱い。
 熱い。
 好き。

 宗太郎さんが帰ってきた。
 ドアが開く音がして、神くんが手を離してわたしの髪を結んでいたゴムを取って三つ編みを解いた。
 神くんの手がわたしの髪を梳く。
「結んでるのもいいけど、首触りたくなるから」
 なんて返せばいいのかわからなかったから何も言えなかった。神くんの手が髪から離れたのと一緒にふすまが開いた。宗太郎さんにお帰りなさいを言った。
「ただいま」
 泣くのって本当に簡単だ。こんななんでもないやりとりだけでまた涙が込み上げくる。違う。なんでもなくなんてない。もう二度とできないかもしれなかった、特別で幸せなやりとり。
 そろそろ寝ようかって神くんが言って、順番に歯を磨いた。
 神くんが取り込んでくれた乾いたワイシャツは制服と一緒にかけてもらった。靴下はリュックの中に。
 わたしが洗面所から戻ってきたらテーブルが片づけられて、多分枕になる座布団が二枚ベッドの前に並んで畳まれた水色のタオルケットも一緒に置いてあった。
「坂口さん、布団入ってていいよ」
「うん、ありがとう」
 タオルケットに手を伸ばそうとしたら宗太郎さんに違うって止められた。
「坂口さんはベッドだよ」
「でも、神くんのベッドだから」
「坂口さんはお客さんだし、俺は宗太郎とベッドで寝るなんて絶対嫌だし、それとも、坂口さんが宗太郎と俺、どっちかと一緒に寝てくれる?」
 わたしがベッドで寝ないとみんな困るってわかったから、ベッドを借りることにした。
 前に一度だけ寝てしまったことのある神くんのベッド。これから寝るのに、心臓がますますうるさくなった気がした。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 神くんが電気を消した。
 視界が黒になる。
 いつもは嫌な瞬間なのに、今日は全然嫌じゃなかった。怖くなかった。すぐそこに神くんと宗太郎さんがいる。
 今だけを見る。二人がいてくれるこの瞬間だけ。でも涙は勝手に出てきた。神くんと宗太郎さんに気づかれないように息を殺した。
 目を閉じた。

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