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 うつせみ 10

 負けたら罰ゲーム。
 そういうルールで神経衰弱をやることになった。
 テーブルの上に伏せて広げられたトランプを見つめる。
 順番はじゃんけんとかで決めると思ったけど何もなくてわたしから時計回りねって神くんに言われた。
 始めて少ししてわたしが負けるのがわかった。神くんも宗太郎さんも、一度開けたカードは間違えなかった。
 最後は神くんがまとめて全部取って終わり。神くんが一番で、ビリはもちろんわたしだった。
「罰ゲーム、何にすんの」
 トランプをまとめていた神くんに宗太郎さんが訊いた。
「ん、どうしよっか」
 なんだか楽しそうな神くんとは反対に、わたしは緊張して膝の上でスカートを握り締めた。
「じゃあ」
 つばを飲み込んで神くんの口を見つめた。
「しばらく語尾にニャアをつけて喋る、とか」
 神くんの口の動きと、聞こえた声がすぐに結びつかなかった。
「え?」
「ワンでもいいよ」
 しばらく頭の中で考えて、猫と犬の鳴き声だってわかったから頷いた。
「わかった……ニャア」
 あれ。
 なんか、なんか、凄く恥ずかしい。頭の中で言うのと実際に声に出すの、全然違った。
「や、やっぱり別のに」
「駄目」
 宗太郎さんに即答されて、神くんもそれに頷いてしまう。
「次は何やる?」
 神くんはわたしに訊いている。
「な、なんでも、いい……ニャア……」
「だったらまた神経衰弱にしようか。罰ゲーム付きで」
 神くんの言葉にわたしは慌てて首を横に振った。またわたしが負けるに決まってる。
「バ、ババ抜き、とかは……ニャア」
 神くんが笑った気配がした。神くんの手がトランプを器用に切って配っていく。
 十分後、わたしの手の中にジョーカーが一枚だけ残った。神経衰弱と違って、わたしでも勝てるかもしれなかったのに勝てなかった。
「弱すぎ」
「ごめん……ニャア」
「あはは、そこで謝んなくていいのに。さっきの罰ゲームはもう終わりにしよ」
 宗太郎さんに反射的に謝ったら神くんが言って、頷いた。よかった。
「次の罰ゲームは何にしようか」
 ほっとしたのに神くんの声が続けて言って、顔を上げた。なんでそんなに楽しそうに笑っているの。
「ん、じゃあ、今から三分、絶対に動かないで」
 それなら、ニャアって言うよりも簡単。何もしないでいれば済む。三分間だけ。
「一回動くごとに十秒伸びるから」
 そう言いながら、神くんが右手を伸ばした。わたしのほうに。
 頭を撫でられた。
「な、何」
「坂口さんに触ってる」
「なん、で」
「触りたいから」
 何故か宗太郎さんが答えたと思ったら宗太郎さんの左手も伸びてきた。指先が髪に触っててのひらが頬に当たる。
 顔、燃えてもおかしくないって思った。
 動いちゃいけなくて、下を向くこともできなくて余計に変な顔になるのはわかったけど耐えられなくて目をぎゅっと閉じた。
 神くんの手が離れて、ほっとする間もなく膝の上の左手を取られた。わたしの体から離れたところで左手を握られる。
「目、閉じてると危ないよ」
 神くんの声が耳元でしたからびっくりして少しだけ動いてしまった。
「宗太郎、少しだけ俺に貸して」
 目を開けたときには、わたしの後ろに回った神くんの、腕の中にいた。
 視線を少し下げた。神くんの剥き出しの腕があった。
「さっき動いたから、十秒追加ね」
 ぎゅうって、抱き締められた。後ろから。神くんに。神くんの重さと熱を感じた。神くん。
 膝の上、右手が熱くなった。わたしの手の上に宗太郎さんの左手。
「目、閉じてろ」
 右手を、きつく握られて逃げたくて言われた通りまた目を閉じた。
 三分と十秒。残りはあとどれくらい? 
 宗太郎さんが動いたのを、右手に少しだけかかった体重と衣擦れの音で知った。
「あ」
 神くんの声がしたのと同時に唇に何かが当たった。
「ずるい」
「じゃあ場所代われ」
「嫌だ」
 神くんと宗太郎さんの会話を遠くで聞いた。
 二人の体温がわたしに触れたまま、必死に頭の中で数を数えて目を開けた。
「あ、の」
 声、出ないと思ったけど大丈夫だった。
「ん?」
 神くんの声はやさしい。
「も、もう、時間、経った?」
「経った」
 宗太郎さんが、右手で携帯電話を確認して答えてくれた。宗太郎さんの左手が離れて神くんの腕からも解放されて体が軽くなった。
「坂口さん」
 元いた場所に戻ろうとした神くんに呼ばれて顔を上げた。目の前に神くんの顔があった。神くんが元の場所に戻ってから何をされたのか気づいた。二人の熱を感じた唇は、本当にわたしの?
「今日の夕飯、何食べたい?」
 今の、気のせいだったかもしれない。そう思うような笑顔で神くんが言った。
 今日は帰らないから、夕飯も一緒に食べられる。
「神くんの作ったものなら、なんでもいい」
 嫌いなものだってきっと食べてしまう。
「ん、じゃあコロッケとかは?」
「うん」
 コロッケって、できているのを買うだけで自分で作ったことない。神くんが作ったコロッケ。
「買い物早めに行っとこうかな。坂口さんも来る?」
「駄目。暑いから一人で行け」
 わたしがどうしようって考える前に宗太郎さんが答えた。
「はいはい。一人で寂しく行ってきますよ」
 神くんが立ち上がる。見上げて目が合った。
「行って、らっしゃい」
「行ってきます」
 思わずかけた言葉に笑顔が返ってきた。
 神くんが出ていく音を聞いて、宗太郎さんと二人きりになったって気づいた。
 視界の端で宗太郎さんが動いたから顔を上げた。宗太郎さんの左手が出しっぱなしになっていたトランプを弄る。薬指には、わたしの指にはまっているのと同じ指輪。テーブルの下で触る。二つの指輪はやっぱりわたしの薬指にはまっていた。
「本当に今日泊まるの。ここに」
 ずっと続いていた沈黙が急に破られて宗太郎さんの声がして、テーブルを見つめたまま指輪を触ることだけにいっていた意識が戻ってきた。
「今ならまだやめられるけど」
「え、と」
 帰れって、言われてるわけじゃないのはなんとなくわかった。
「何もしないなんて約束できない。俺も孝太郎も、あんたのことがずっと欲しいから」
 わたしが逃げられないように、でもちゃんと受け止められるようにどこかぼやけた言い方をした。
 わたしには全然関係のないことで、ありえないことで、でも、ぞくぞくする感覚ををわたしは知っている。神くんも宗太郎さんも、わたしのことを嫌がらないでいてくれて、やさしくしてくれてそれだけじゃない。ぞくぞくする感覚は、求められる感覚。
「欲しい、って」
「体。だけじゃないけど今はそれが欲しい」
 わたしが勝手に勘違いしてるだけかもしれないって、思いたかったけどできなかった。
「で、でも、実際に見たらやっぱりいらないって、なるよ」
 声が震える。今度はぼかしてくれなかった。
「それでいらなくなるならそもそもあんたを欲しいなんて思わない。どうするの」
 宗太郎さんがしたいかもしれないことを、わたしは多分したくない。うまく考えられないけど、全部曝け出せるかって言われたらそんな覚悟も勇気もなくて、それに、一人だけじゃない。神くんと宗太郎さん、二人の人に手を伸ばしてしまった。
「か、体は、あげられない」
 元々熱い顔に火がついたみたいになった。言い方、間違えた。でも他になんて言えばいいのかわからなくて言い直せなかった。
「わたし、二人と一緒にいたいから」
「それは理由にならない」
「え……?」
「三人なのは最初からわかってる。その上で欲しいって言ってる。だからあんたが俺たちとする覚悟があるのかないのか訊いてる」
 どうしようもないわたしは逃げ道をなくしていかないとちゃんとわかろうとしないから、宗太郎さんはそうやってわたしが考えられるようにしてくれている。
「でき、ない」
「なんで」
「もっと、大人になってからじゃないとしちゃいけないこと、だと、思うから」
 怖いとか恥ずかしいって言葉を漠然と重ねるよりも、今はその理由が一番わかりやすくてすっきりした。
「あんたが言う大人って何歳。二十歳? それとも高校卒業したら?」
「え、あの、は、二十歳……?」
「善処する」
 何を、って訊こうとした神くんが帰ってきた。
 ふすまの向こうでがさごそ買い物袋の音や冷蔵庫を開けたり閉めたりする音が聞こえた。それから後ろでふすまが開いて、神くんが入ってきた。
「あっちー」
 Tシャツの裾をぱたぱたさせて中に風を送りながら神くんがテーブルの左側に腰を下ろした。
 こめかみから首筋を汗が落ちていくのを見た。神くんの。
 生々しいって、思った。生きて、そこにいるわたしじゃない人。
「二十歳になったらしていいって」
 宗太郎さんが何か言ったのはわかって、何を言ったのかわかるのに少し時間がかかった。でも神くんは、さっきの宗太郎さんとの会話を聞いていたわけじゃないのにすぐわかってしまったみたいだった。
「え」
 神くんが驚いたように声を上げて、わたしはどこも見られなくなって俯いて目を閉じた。
「本当、に?」
「違う、そういうんじゃなくて、大人になるまではしちゃ駄目なことだって、思ってるだけで」
 なんでこんな話をしているの。顔が熱くて、どうしよう。
「同じことだろ」
 宗太郎さんには何も返せなくて首を横に振った。
「坂口さん、ちゃんと考えてくれたんだ」
「か、考えてない、違う、わかんない」
 わたしがこんなこと考えるの、おかしい。
「おかしくないよ」
 心を読まれたのかと思った。神くんはやさしい声で続けた。
「坂口さんはそういうの嫌なのに、俺たちのためにちゃんと考えてくれて、嬉しい」
 そんなふうに言われたらそれ以上考えてないなんて言えなかった。
 二十歳まであと三年。三年後も一緒にいられるなんて思ったら駄目。幸せすぎるこの現実は明日なくなるかもしれない。
 もし、一緒にいられたら。三年後も一緒にいられたら、今のわたしにとっては怖くて恥ずかしくてありえないことだけどわたしも二人がしたいって言うこと、をしたいって思うのかな。
 テーブルの下で指輪を触った。これは、返せって言われなかったら三年後も残っている。二人がいなくなっても残る。二人と一緒にいられた証。
 また泣きそうになったけどいきなり宗太郎さんに腰を揉まれてびっくりして涙は引っ込んだ。
「な、何」
「あんたの絵描くから顔上げろ」
 いつの間にか宗太郎さんの前にスケッチブックと十二色の色鉛筆が並んでいた。
 指輪を触りながら背中を少しだけ伸ばした。写真を撮られるのは苦手なのに、宗太郎さんに描いてもらえるのは恥ずかしいけど凄く嬉しい。
 真っ直ぐ前を向いて、灰色のカーテンを見つめた。

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