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 うつせみ 01

 夏は嫌い。


 足元に落とし穴がある感じ。一歩進んだら落ちる。
 六月最後の日。
 お風呂から上がってベッドに座って息を吐いた。濡れた髪を押さえていたタオルで耳をふさいで目も閉じたら自分の音に押しつぶされそうになってすぐにやめた。
 もうすぐ宗太郎さんから電話がかかってくる時間。
 今日は、宗太郎さんに言わないといけないことがある。いつもよりも心臓が落ち着かないのはそのせい。
 胸を押さえながら深呼吸を何度もしているうちに十時になって、今日もぴったりの時間に電話が鳴った。頭にタオルをかぶったまま電話に出た。
「もしもし」
『勉強、どう』
 宗太郎さんの声だって思った。電話の向こうから宗太郎さんの声が聞こえる。
 いつの間にか当たり前になっていたことが今日は頭のどこかに引っかかってそう思った。
 間違い電話でもセールスの電話でもいたずら電話でもなくて、わたしと話すために電話をかけてきた人の声。
「勉強」
 どう答えたらいいのかすぐにわからなくて、声に出して繰り返してから宗太郎さんが訊きたいことに気づいた。
「あ、期末テストのは、それなりに」
『また孝太郎と一緒にやれば』
「今度は、一人でやる。いつも頼っちゃうの、よくないと思うから」
 試験勉強は今までだって一人でできていた。
「それで、あの」
 宗太郎さんに言わないといけないこと、言い出すタイミングがわからなくて無理やり話を繋げた。
「明日の電話わたし出られない」
 早口になったけどちゃんと言えたからよかった。
『なんで』
 なんで。理由。電話に出られない理由。
 宗太郎さんに言える言葉、何も考えてなかった。
「出られないのは、うん……と」
 考えてもすぐに出てこなくて正直に言えないって答えた。
『なんで』
「言えない、から」
『いつなら言えるの』
 ああ。
 勝手にのどから零れそうになった声はただの吐息になった。宗太郎さんには多分届かなかった。
 宗太郎さん、こんなに重い言葉、そんなに簡単にくれたら駄目だよ。
 わたしのわがままなのに、宗太郎さんは突き放さないでくれる。手を伸ばしてくれる。その手を掴んだらきっと引っ張り上げてもらえる。
 本当は、今言いたい。言って縋りたい。でも、言うなわたし。
「わかんない、けど、ありがとう」
『明日も電話する。出たくないなら出なくていい。おやすみ』
「おや、すみ」
 電話が切れた途端我慢できなくなった。涙が出てきて天井を見上げた。



 七月最初の日は雨だった。目を開けて雨の音を聞いて、安心した。少しだけ。
 いつもより遅い時間に家を出た。
 教室に着いたのは一時間目が始まる五分前。神くんはちゃんといた。自分の席に座るとき、神くんと目が合った。神くんの口が「はよ」って動いたのが見えたのに無視するみたいにすぐに違うところを見た。
 自己嫌悪。
 わたしが神くんと宗太郎さんにされたら傷つくことを、わたしが二人にしている。
 全部、無意味な自己満足。一日だけ。少しでも幸せな気分にならないために。
 その日一日、神くんとはもう目は合わなかった。
 見ないといけないことからも目を逸らした。

 お風呂上がり、ベッドに腰かけてぼんやりしていたら電話が鳴った。宗太郎さんから。
 昨日、出なくてもいいって言ってくれた。だから出ない。今日は出ない。今日は。
 考えたくない。

「もしもし」

『今日は、出ないんじゃなかったの』
 宗太郎さんの声を聞いて、後悔したけど嬉しかった。嬉しかったけど悲しかった。
「ごめん」
 泣くのは我慢できた。声もしっかり出せた。
『孝太郎も気にしてる。何かあるならさっさと話せ』
 わたしのことを心配してくれている人の声。
 ごめんなさい。ありがとう。
 伝えられない言葉はどこにも行き場がなくて、涙の種になる。
 本当は電話に出るのも駄目だったのに出ちゃったから、これ以上は寄りかからない。自分に何度も言い聞かせる。苦しくなって楽になるために。
「いつも、神くんと宗太郎さんに甘えてばかりだから、たまには、と、思って」
『それだけ?』
「うん。それだけ」
 うまく言えた。宗太郎さんは、それだけじゃないって簡単に気づいてしまったはずなのにそれ以上は訊かないでくれた。
『別に甘えてばっかでもいい。離れられるよりそっちのほうがいい』
 駄目だ。酷い。そんな言葉、嬉しいけど駄目。
「ありが、と」
 それしか言えなかった。
 幸せなのに苦しい。二人がいるのに。二人がいるから。
 いつかはいなくなる人たち。

 次の日はいつもと同じ時間に学校に行った。教室には神くんが先に来ていた。
 朝の挨拶。テストの話をちょっとだけして、宗太郎さんとの電話のことも、昨日いつもの時間に来なかったことも、何も訊かれなかった。安心したのに不安にもなったから思わずごめんって謝ったら神くんは笑った。
「問い詰めてもいいならそうするけど」
 ごめんって言っただけで神くんにはなんのことかわかってしまう。楽で、心地よくて、でもそれだけじゃない変な感じがする。
「想像は、色々してる。坂口さんは多分いつかちゃんと話してくれると思うから、今は我慢する」
 笑顔を引っ込めた神くんの右手がわたしの髪を撫でて熱を生んだ。もう神くんの顔は見られなくなった。
「今は、ね。必要だと思ったらすぐに、無理やりにでも聞く。宗太郎も」
 やさしすぎて、本当にわたしに向けられている言葉なのか不安になるくらい。
「ありがとう」
 前を向いて、黒板を見つめながら言った。途中でのどに引っかかったけど神くんには聞こえたはず。
 一生をかけても二人に貰ったものは返せない。それだけのものを、ほんの数ヶ月の間に貰った。
 こんなにたくさんの幸せ、わたしには抱えきれない。でも放り出すことはもっとできない。
 わたしの幸せには代償が必要です。
 だからこの苦しさはその代償です。



 期末テストはあっという間に終わった。
 答案返却は遠足の後だけど多分いつも通りにできた。
 神くんと宗太郎さんに頼らなくても大丈夫だった。ちゃんとできた。一人でもできた。
 今までと同じ。
 二人と一緒に勉強した中間テストのときが特別だっただけ。



 遠足の日の空は朝からどんより曇っていた。天気予報では夕方から雨だった。家を出る前にリュックの中の折りたたみ傘を一応確認した。
 今日も温い空気が湿っていてうっとうしい。少し歩くだけで汗が出てきてべたべたする。梅雨明けはまだみたい。
 去年の遠足はバーベキューだったからジャージで、みんなでバスに乗ってキャンプ場みたいなところに行った。
 今年は遊園地で制服。現地集合現地解散。行ったことのない場所で、電車も二回乗り換えがある。方向感覚もあるほうじゃない。だから神くんに「一緒に行く?」って言ってもらえて凄く嬉しかった。でも一人で行けるって言ってしまったから神くんはいない。
 一回目の乗り換えのある駅は普段使っている路線の終点で何度か行ったことがある。大きな駅。ホームもいっぱいあって人もいつもたくさんいて、そこで迷わなければきっと大丈夫。
 その駅までは学校に行くときと同じ各駅停車に乗った。
 他の電車と比べたらまだましなほうだけど終点に近づくにつれてどんどんぎゅうぎゅう詰めになる。やっぱり神くんと一緒じゃなくてよかった。一緒だったら神くんと密着することになってしまう。
 終点。人の波に押し出されてぎゅうぎゅう詰めから解放されても息をつく暇もない。
 電車の中で抱えていたリュックも背負えないまま流されて階段を上ったり下りたりして、なんとか流れから抜け出して大きな柱の近くまで行く。どの路線に乗り換えるのかはわかってる。出ているはずの案内を見ようと思ってリュックを背負いながらぐるりと目と頭を動かした。
 目の前を流れる人の波がぐにゃりと歪んだ。
 それぞれの目的地に向かうばらばらのはずの動きは、離れて見たら大きな一つの流れになってわたしはそこから弾かれて、置いていかれて。
 この感じは嫌。わたしだけ取り残されているみたいで、怖い。
(こわい)
 たくさん聞こえる音が遠くなって人に酔って気持ち悪くなった。しゃがみ込みたくなったけど柱に手をついて我慢する。
 わたしにも行くところがあるのに。今はひとりじゃないのに。神くんと宗太郎さんがいるのに。
(どこに)
 どこ。
 神くんは。宗太郎さんは。
 わたしはどこにいるの。ぐるぐるする。頭の中、気持ち悪い。寒い。
「坂口さん」
 神くんの声がして顔を上げた。神くんがいた。
「はよ。こっち、反対方向」
 一人で行けるって言ったからわたしは一人で遊園地に行かないといけない。神くんはいない。でもいた。目の前に。
「おは、よ」
 びっくりした。
「反対……?」
「そう。乗り換えはあっち」
 神くんは右手で、わたしが来た方向を指差した。
「神くん、なんで」
「あ、いや、たまたま同じ電車乗ってて、降りたら坂口さんがいたから声かけようと思ったんだけど、違うほう行っちゃったから追いかけてきた」
「……ごめん、ありがとう。神くんも、早めに家出たんだね」
 わたしは迷っても大丈夫なように、早めの時間に家を出てきた。今ここに神くんがいるということは、神くんも同じような時間に家を出たということ。
「ん、坂口さんがその時間の電車に乗るって言って、た……から」
 神くんが途中で変なふうに言葉を切った。思わず神くんを見上げた。目が合って、神くんがちょっと困ったみたいに笑った。
「ごめん、たまたまじゃなくて、狙って坂口さんと同じ電車に乗った」
 多分嬉しかった。嬉しかったけどその感情が大きすぎてわからなくなった。
 ありがとうって言おうとしたけど声が出ない。その代わりに目が熱くなってくる。
 こんなタイミングで現れてそんなこと言っちゃう神くんはずるいって、八つ当たりみたいに思った。
「一緒に行こう」
 とどめを刺されそうになった。でも大丈夫。我慢できる。自分の靴を見つめて、首を横に振った。
「一人で、大丈――」
「坂口さんが大丈夫でも俺が大丈夫じゃない」
 馬鹿みたいに意地を張ろうとしたわたしを神くんが遮った。困るよりもほっとしたから、わたしはこうなるのを期待してたんだってわかった。
 一人で頑張るふりをしてそんな自分に満足して結局神くんと宗太郎さんに寄りかかって、わたしはわたしだった。
「坂口さんが坂口さんの都合で俺たちから離れようとするのと同じで、俺たちも俺たちの都合で坂口さんと一緒にいたいって思ってる。だからお互い様」
 神くんの言葉は砂糖みたい。甘くて、溶ける。
「神くん」
 右手を伸ばした。何も考えてなくて、手が勝手に動いた。
 神くんの左手がわたしの右手を掴んだ。当たり前のことみたいに、でも掴む前に少しだけ、神くんが躊躇したのがわかった。
 神くんも宗太郎さんもいつも凄く気を遣ってくれるの、知ってる。知ってるよちゃんと。だからわたしはどんどん自惚れる。二人に甘やかされて包まれて、ずっとこのままでいられたらって夢を見てしまう。
「このまま、二人だけでどっか行こうか」
 神くんは冗談で言っただけなのにわたしは真に受けてびっくりして握られた右手を自分のほうに引いてしまって、神くんがごめんって、謝る必要ないのに謝った。
「手、向こうの駅に着いたら離すから」
 神くんが歩き出す。わたしも歩き出す。手を繋いで。
 思ったよりも冷静でいられた。前みたいに頭の中はぐちゃぐちゃしてない。でも、嬉しい気持ちよりも悲しい気持ちのほうが大きかった。ずっと繋いではいられないから。
「神くん」
「ん?」
 わたし、おかしい。寄りかかったまま戻れない。ずぶずぶ沈んで埋もれて戻れない。
「今日、神くんのうちに行ってもいい?」
 駄目って、神くんは言わないでくれるんだろうなってなんとなく思って訊いた。
「……いいけど、なんで?」
 理由なんて一つしかない。
「一緒に、いたいから」
 神くんは何も言わなかった。わたしは前を向いて、神くんのほうを見られなかったからどんな顔をしているのかもわからない。ただ右手を、痛いくらいきつく握られてそれで十分だった。
 神くんが引っ張ってくれるから周りを見るのをやめた。

 乗り換えた後の電車は思ったよりも空いていた。混んではいたけどぎゅうぎゅうじゃない。神くんとも密着しない。でも手は、リュックを下ろすときに一度離した後また繋いでる。見るのをやめた周りには、知っている人はいないはずだから大丈夫。
 てのひらに汗をかいて気になったけど神くんはずっと窓の外を見ていて、何も言わなくて手も離れなかったから神くんは気にしてないんだって思うことにした。
 二回目の乗り換えは、一回目の乗り換えのときよりも小さい駅で改札も通らなくて違うホームに行くだけだった。繋いだ手は離れない。
 さっきの電車と同じような込み具合の電車に同じように揺られる。十分くらいで降りる駅に着いて電車を降りて、ホームのベンチの前で神くんが立ち止まってわたしを見た。
「手、離すよ」
 首、横に振りそうになったのを堪えて頷いた。神くんの手が離れてすぐに右手を握り締めた。
 知らない駅は降りた人も少なくてすぐにホームには人がいなくなった。
「時間、早いから座って待ってよう」
 神くんはベンチに座る。間を少しあけてわたしも座る。湿った空気を大きく吸い込んで、吐き出した。
 知らない場所に神くんといる違和感。だんだん大きくなって苦しくなって余計なことを考えた。
 もし今ここに神くんと一緒にいるのが、わたしじゃなかったらとか。
 神くんの隣にいるのがわたしみたいなわたしじゃない人だったら、なんでこんな人がって思う。どうしてわたしは駄目なのって思う。わたしが欲しいものを全部持っているような神くんとお似合いの人でも、ずるいって思ってどこまでも酷いことを思って、そうやって人を妬んで恨んでわたしは。
「坂口さん」
「な、に?」
 神くんに絶対に知られたくないことを考えていたから、いきなり神くんに呼ばれて余計に心臓が痛くなった。
「うち、帰り直接来る?」
「うん、神くんがいい、なら」
「いいに決まってる。遠足の後も坂口さんと一緒にいられるなんて思ってなかったから、本当に嬉しい」
 ちらっと見た神くんの笑顔が眩しすぎてすぐに下を向いた。
 きっと、そのままの意味で受け取っていい言葉。でもそのまま受け取ったら普通の顔でいられなくなる。
 神くんと一緒にいられて、わたしのほうがもっと嬉しい。嬉しくてどろどろ溶けていく。見たくないものも覆い隠される。
 顔を上げて、線路の向こう側のホームにあるベンチを見つめた。

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