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 水面の月02

 声はいつもより大分小さくなったけれど岩崎にはきっとしっかり聞こえた。
「……え?」
 動きを止めた岩崎は、しばらくしてから居心地が悪そうに窓の外に視線を移した。ここで冗談だって笑えばまだ間に合う。
「なんて、冗談。何奢ってもらおうかな」
 声のトーンが低すぎて、冗談ではないと岩崎に確信させてしまったのかもしれない。
「彼女にして、じゃなくて作らないで、なのね」
 私の精一杯の嘘を無視して岩崎が言った。
「だってありえないでしょ」
「何が?」
「岩崎と私が付き合うとか」
「なんで?」
「なんでって」
 岩崎が私にそういう感情を抱くわけがないから。
 そこまで言わせないでよ。
「ありえないものはありえないから」
「まあ、俺、タカミに結構酷いことしてたみたいだし今更か」
 してたみたいじゃなくて現在進行形でしてるのには気づかないのか。
 こんな形で気持ちが伝わってしまうなら、どんなに望みはなくて伝えるだけさっさと伝えてしまえばよかった。
「今謝ってもいい?」
「んなことしたら殴る」
 右手で拳を作って岩崎に向けた。
「じゃあどうすればいいのよ俺は」
「だから何か奢ってくれるんじゃないの?」
「タカミはそれでいいわけ?」
「いいって、言ってんでしょ」
「俺、タカミには嫌われたくないよ」
 わかってる。わかってるわかってる。岩崎が私だけを見てくれることはないって。
 もう勘違いはしない。岩崎の言葉は全部友達として。
「本当に嫌いになれたら、今も友達やってない」
「んー、じゃあとりあえず卒業するまでは彼女作らないから」
 期待。するな私。
「受験もあるし、男女交際だけが青春でもないし」
「……勝手にすれば」
「うん、勝手にします」
 酷い奴。
「私は卒業するまでに彼氏作ろうかな」
「あ、それは駄目。タカミにもひとりでいてもらうから」
 心にもないことを言ったら、腹の立つような笑顔ですぐに却下された。
「それこそ私の勝手じゃない」
「多分俺、タカミに彼氏ができたらショックだから」
 本当に、酷い。
「岩崎のそういうところ、むかつく」
「そういうってどういう」
「そういう自分勝手で無神経なところ!」
 岩崎は何も知らなかったのだから仕方がないと思おうとしても、日頃の鬱憤が抑えきれずに溢れてくる。
「いつも私がどんな気持ちで岩崎の話聞いてたと――」
「ちょっと変な話していい?」
 急に真面目な顔をして話を変えた岩崎に、私は思わず身構える。
「何?」
 一呼吸置いて訊くと岩崎は真面目な顔のまま妙な前置きをした。
「さすがにタカミもひくと思うんだけどさ」
「岩崎に幻滅できたらそれはそれで私は楽になるね」
「あー……まあ、幻滅されてもおかしくない話」
「それは是非聞きたいわ」
「俺」
 往生際が悪いのか、岩崎は一瞬言いよどみそれから視線は外に向けたまま続けた。
「手、繋げないんだよね」
「……は?」
 岩崎が何を言いたいのかよくわからないから、とりあえず続きを待つ。
「いや、繋げることには繋げるんだけど、何か気持ち悪くなって駄目なんだよ」
「あ、実は男が好きって話?」
 どう反応していいのかもわからなくて茶化そうとしたけれど岩崎の表情は変わらない。
「なんでそっちにいくんだよ。普通に女の子が好きです」
「……で?」
「女の子って結構鋭いところあるっしょ。だからそういうの、気づかれていつもふられる」
 ころころ変わる彼女の理由。いつも聞くのは惚気話と彼女ができた別れたの報告で、理由を尋ねたことはなかった。本人が言わないのに別れた理由をわざわざ尋ねる気にもならなかったし。
 思い返してみれば長くても三ヶ月もてばいいほうだった。誰とも長続きしないことに、私はどこかで安心していた。
「何か、意外」
 岩崎の周りにはいつも誰かいる。人に好かれて岩崎も人を好きで、だから誰かに嫌悪感を抱く岩崎がうまく想像できない。
「俺、どっかおかしいのかなとか、色々悩んでいるわけですよ。友達なら、男でも女でも平気だけど彼女になると何か、ね」
「ふーん」
 冷静なふりをして、最低なことに私は内心喜んでいた。
「手を繋ぐのが駄目なら、キスやら何やらはどうしてたの?」
 今まではとても訊けなかったことを、せめて何もなかったらいいのにと思いながら訊いたら、岩崎は困ったように顔を背けた。
「ノーコメント」
 微妙な反応に、自分が馬鹿な質問をしたことに気づく。手だって繋げないわけじゃないということは、つまりそういうことかもしれない。
 本当に、何を期待していたんだろう。岩崎が誰のものにもなっていなければいいのになんて夢を見すぎてる。とっくに諦めたはずなのに今更こんなのって、ない。
「岩崎って、自分から言って付き合ったことないの?」
 話を変えようとしたら声が震えそうになって、慌てて咳をするふりをして誤魔化した。
「あー、そういやみんな向こうからだな」
「まさか本当は好きでもないのに据え膳食わぬはとかで付き合ったりは」
「好き、だったと思う。じゃなきゃ付き合わないし。可愛いなとも思う。でも、駄目」
 散々聞かされた惚気話を思い出して吐き気がした。
「幻滅しただろ。付き合ってる相手を気持ち悪いと思うなんて」
「私としては、ずっと忘れられない人がいるとか言われたほうがダメージが大きかったわ」
「独占欲強いタイプ?」
「じゃなくても普通そういうのは嫌なもんでしょ。過去のことだったらともかく。でも誰かさんに惚気話を嫌と言うほど聞かされたおかげで結構耐性ついた気がする。大体なんで私、岩崎が誰と付き合ったか全部知ってるんだろう」
 何故か中学時代にできたとかいう初めての彼女のことも知っている。全部知りたくなかった。知らないほうがよかった。私が絶対になれない立場になれた人の話なんて聞きたくなかった。
「いや何か、タカミがいつもすっげえ嬉しそうに聞いてくれるからつい」
 喜ぶふりなんかしないで素直に泣いていたらどうなっていたのか考えようとして、すぐにやめた。くだらない。
「むしろ毎回、泣きそうだったよ」
「……うん」
 ごめん。岩崎の口がそう動いたのには気づかなかったことにした。
 お互い無言になって、そろそろ教室にでも戻ろうかと思っていたら岩崎が呟くように言った。
「好きだったけど、本気で好きになったことは多分なかったんだと思う」
「何、急に」
「本気で好きだったら、気持ち悪いのも我慢できたんじゃないかと思って。タカミなら、気持ち悪くなっても大丈夫な気がする。どうして今まで気づかなかったんだろうなあ」
 気持ち悪くなるのが前提なのか。後半のふざけた発言は無視する。
「そもそもなんで気持ち悪くなるの? 何かトラウマがあるとか」
「んー、それが特に思い当たることがないんだよ。だから余計に悩む」
「もしかして結構深刻な悩み?」
「もしかしなくても深刻だよ」
 岩崎がその深刻な悩みを人に打ち明けたのは、もしかしたら私が初めてなのかもしれないと何となく思った。ぺらぺら人に喋るようなことじゃないのは確かで、私に話すのは少なからず勇気がいることだったはずで。
 岩崎にとって私は少しは特別なのかと夢を見かけた。
「いつか気持ち悪くならない人と出会えるといいね」
「そんなことになったらお前絶対泣くだろ」
「自惚れんなばーか。あーあ言うんじゃなかった」
「はっはっはー。しばらくネタにしてやる」
 お互い目を見合わせて小さく笑う。無神経だけど岩崎なりに気を遣っているつもりらしいのはわかった。下手になかったことにされたら、無理やりでもこうして笑うことはできなかった。
 しばらく二人で笑い合って、やっぱり私は岩崎のことが好きなのだと痛感する。岩崎が言った通りだ。岩崎が本当に好きな人に出会ったらなんて、考えたくもない。
 岩崎が深刻に悩んでいる現状を、私は嬉しいと思ってしまった。私に望みがないならそれがこの先もずっと続けばいいなんて、最低のことを。
「卒業式の日、二人でどっか行こうか。手、繋いで」
 冗談なのか本気なのかわからない声色で岩崎はまたふざけたことを言ってくる。
「それは友達として?」
 嫌がると余計に調子に乗って変なことを言ってきそうだったから何でもないふりをして訊き返した。
「さあ」
 とぼけた笑顔で返す岩崎に、私も仕返しをすることにした。口の端を持ち上げる。
「どっちでもいいけど、私掴んだ手は絶対離さないからそのときは覚悟してね」
 岩崎の笑顔が一瞬固まった。
「……あれだな、タカミと結婚したら俺絶対尻に敷かれるな」
 動揺。するな私。
「好きな人には尽くすタイプのつもりだけど」
「うわ、想像できねー」
「失礼な」
 くだらない、意味のないやりとり。
 わかっているけどやっぱり駄目だ。期待しないなんて無理。夢を見ないのも無理。こんなに近かったら届かないとわかっていても手を伸ばさずにはいられない。
「ついでに私、もの凄く馬鹿だからふざけたことばっか言ってると本気にするし期待するよ」
 震えそうになる声を無理やりのどから押し出して冗談めかして言ったら、岩崎が私をまじまじと見つめてきて思わずたじろいだ。
「何?」
「あーいや、ありえないとか言ってたから」
「何の話?」
「俺と付き合うのはありえないって」
 何を言っているんだこいつは。
「それは、岩崎が私と付き合おうとか思うわけないってことでしょ」
 岩崎は少しだけ不機嫌そうに口をとがらせた。
「誰がそんなこと言ったんだよ」
「言わなくても、あれだけ惚気話とかされたら対象外だって言われてるのと一緒だよ」
 話が何だか変な方向に進みかけているのを感じながら岩崎に言い返した。
「あーそっか。タカミ相手だと、何かそういうのわかんなくなるな。まあとにかく、タカミがそう思い込むくらい酷いことしてたのはよくわかった」
 岩崎が左手を上げた。目で追うとすぐに視界から消えてそれは、私の頭の上に。
「卒業式まで待つの、やめるか」
 まるで子供を相手にするみたいに何度かぽんぽんと頭を撫でて岩崎の手は離れていった。
「……やっぱり来るものは拒まないんだ」
 ありえない展開に、我ながら可愛げのない言葉しか出てこなかった。
「じゃなくて、灯台下暗しだっただけ。自分でもどうしようもねえって思うから、タカミに罵られる覚悟はできてる。あ、殴るのはなしの方向で」
 私がずっと握り拳を作ったままなのを警戒したのか余計な一言がつく。
 岩崎にぶつけてやりたい言葉はいくらでもあったけれどどれも声になる前に消えてしまう。岩崎に気づかれないように深呼吸してみても何も効果はなかった。自分の顔を見られたくなくて岩崎の顔も見られない。
 昼休みの渡り廊下だから普通に人が通る。さっきまでは大して気にならなかったのに今は背後を誰かが通る度に早く通り過ぎろと念を送りたくなる。
「あー……何だこの沈黙は。そういう責められ方は殴られるよりつらいぞ」
 私がいつまでも黙っていたら岩崎がしびれをきらしたようにぶつぶつ呟いた。私はもう一度深呼吸した。
「私」
 やっと出た声は、いつも通りの私の声で少し落ち着いた。顔を上げて岩崎を見る。岩崎も私のほうを向いた。目も、ちゃんと見られる。
「本当に離さないよ。岩崎がどんなに気持ち悪くなっても絶対離さないよ」
「俺、タカミのそういうとこ好き」
 私の大好きな笑顔で、どうしてそういうことを。今のは普通に友達ののりで言ったのはわかる。わかるから動揺してしまった自分が許せない。
「岩崎の馬鹿!」
 ただの八つ当たりだから握り締めていた右手を、一応開いて岩崎の腕を叩いた。手加減もした。一応。
「おわ、何だよ、タイミングおかしいだろ!」
「おかしくない」
「いや、絶対おかしい」
 岩崎の声に被さるようにチャイムが鳴って、私と岩崎は同時に上を向いた。
「岩崎とくだらないこと話してたせいでお昼食べ損ねた」
「へいへい、学校終わったらそのくだらないことの続きを話しながら飯食うから逃げるなよ」
 岩崎って、色々ずるい。
「教室戻るか」
 私の恨めしげな視線をかわして岩崎は歩き出した。私も少し遅れて岩崎の後を追う。
 あんなに遠くに感じていた背中が、とても近くにあった。

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