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 存在証明

 家に帰ってきて、制服を着替えようとしたところで宗太郎さんから電話があった。家の前にいるって言われて慌ててドアを開けたら本当にいた。宗太郎さん。
「会いたかったから」
 それだけ言うと宗太郎さんは靴を脱いで、わたしの横を通って階段を上っていく。わたしもドアを閉めて慌てて宗太郎さんの後を追った。見られたら困るものは多分出てないから大丈夫って思ったけど、宗太郎さんがわたしのベッドに座っているのを見たらやっぱり落ち着かなかった。
 何の用か訊こうとして、宗太郎さんがもう理由をちゃんと言ったことを思い出して顔が一気に熱くなった。
「スケッチブック」
 宗太郎さんがわたしの机のほうを指差した。取れってこと?
 前に宗太郎さんにわたしの絵を描いてもらったスケッチブック。あの後わたしも少しだけ描いてみた。机の上に置いていた小さなクマのぬいぐるみ。宗太郎さんはどうやったらあんなにさらさら上手く描けるんだろうって思った。
「取って」
 宗太郎さんに言われてスケッチブックを取って、宗太郎さんに渡したらわたしの下手な絵を宗太郎さんに見せてしまうことになるって気づいたから後ろに隠した。
「これは駄目」
「なんで」
 何て言ったら宗太郎さんに見せなくて済むか考えていたら宗太郎さんが立ちあがってわたしの前に。宗太郎さんを見上げて、どきどきした。わたしとは違う世界の人なのに、今こうしてわたしの目の前にいてわたしを見ている。
「駄目なのは、わたしが描いたのを見られたくない、から」
 上手く誤魔化せなくて、本当のことを言ってしまった。
「なんで」
「下手だから」
「別にいい」
 よくないって言う前にスケッチブックを取られてしまった。一瞬のことで、わたしは何もできなかった。
 わたしの絵はスケッチブックの二枚目。スケッチブックをめくった宗太郎さんの手もすぐに止まる。
 真っ白な紙の真ん中に小さく描いた歪んだクマのぬいぐるみ。宗太郎さんみたいにはどうやったって描けない。
「もう、返して」
「返すから、俺の絵も描け」
 戻ってきたスケッチブックを閉じようとして、宗太郎さんを見上げた。
「え」
「嫌ならヌードモデル」
「だ、だからそんなの無理って」
「だったら描け」
 わたしが宗太郎さんの絵を?
「なん、で」
「いつも俺が描いてるから」
「わたし、上手く描けない」
 またベッドに腰を下ろした宗太郎さんに言う。
 本当は可愛いのに怖くなったクマのぬいぐるみみたいに、宗太郎さんも変なふうになる。
「知ってる」
 それだけ言って、宗太郎さんは枕元に置いてあった漫画を読み始めた。
 もう何を言っても聞いてもらえそうになかったからとりあえず引き出しの中から鉛筆を出して、椅子を回して宗太郎さんのほうを向いて座った。
 膝の上には真っ白なスケッチブック。
 顔を上げたらわたしのベッドに座って脚を組みながら少女漫画を読んでいる宗太郎さん。
 わたしは途方に暮れてまたスケッチブックに視線を落として、宗太郎さんの絵を描くということは、好きなだけ宗太郎さんを見られることだって気づいたから、鉛筆を握り直して顔を上げた。宗太郎さんの視線は漫画に向いたままでよかった。
 絵を描くときは、いつもは何となく見ているものも見えていないものもちゃんと見ないと描けない。宗太郎さんの顔、こんなふうにちゃんと見ることなんてほとんどない。神くんの顔も。
 何とか輪郭を描いた。緊張して手と一緒に線も震える。首と肩を描いて少し迷ってから口と鼻を描いた。宗太郎さんはどこも全部、きれいにできていて羨ましい。
 次は目。見ようとしたら宗太郎さんの下を向いているはずの目がこっちを見ていた。思わずスケッチブックに落した視線をもう一度おそるおそる宗太郎さんのほうに向けたら、まだこっちを見ていた。
 宗太郎さんの目を見るのは絵を描くため。宗太郎さんもわかってる。宗太郎さんの目だって意識しないように眼鏡の向こう側の目を見つめた。
 意識しないようにするのはすぐに諦めた。
 宗太郎さんの目。
 宗太郎さんはきっとわたしみたいに曖昧な見方はしない。いつも何でもちゃんと見ている。真っ直ぐに。
 宗太郎さんの絵が、宗太郎さんの見ている世界なら宗太郎さんが見ている世界とわたしが見ている世界は違う。宗太郎さんが描いた絵、まだちょっとしか見たことがないけどそれでもわかるくらい、全然違う。
「手が止まってる」
「あ、ごめ、ごめん」
 右目の途中で止まっていた手を動かす。
 これ、できたら宗太郎さんに見せないといけないのかな。怒られるか、馬鹿にされるか、どっちだろう。
 宗太郎さん。
 目が熱くなってくる。本当なら今は一人でいる時間。
 夜中の突然の電話も、学校に行く前の時間にうちに来たのも、びっくりしたし恥ずかしかったけど嬉しかった。本当に嬉しかった。今も、嬉しい。
 涙が落ちる前にそれ以上考えるのはやめた。
 目を描くのは凄く難しくて消しゴムを何度も使った。眉毛と耳、髪の毛を描いて最後に眼鏡を描いておしまい。できるだけ見た通りに描いたつもりでも、スケッチブックの中の宗太郎さんは宗太郎さんに見えなかった。
 宗太郎さんが立ち上がってわたしの前に来た。わたしが見上げたときには手の中のスケッチブックは消えていた。
 鉛筆を握り締めた両手を見つめた。宗太郎さんがわたしの描いた絵を見ている。
「下手くそ」
「ごめん」
 声、そんなに怒ってる感じでも馬鹿にしてる感じでもなかった。
「描くとき、分けて見るから変になるんじゃないの。目とか鼻とかじゃなくて、俺を描け」
 言われたこと、わかったような気もするしわからなかったような気もする。
 もう一度宗太郎さんを見上げたら宗太郎さんの目はもうスケッチブックから離れていた。
「宗太郎さんが描いてるところ、見たい」
 宗太郎さんの左手が伸びてきてわたしの右の手首を掴んだ。宗太郎さんに引っ張られて立ち上がる。
 宗太郎さんがベッドに腰を下ろして、その右隣にわたしも座った。描いているところ、見せてもらえる。
「何、描くの?」
「何がいい」
 鉛筆を渡しながら訊いたら逆に訊き返されて考える。わたしが描いてもらいたいものを、宗太郎さんが描いてくれる。わたしの絵、はもう描いてもらった。だから今日は違うの。
「じゃあ、宗太郎さ」
「それ以外」
 宗太郎さんに宗太郎さんを描いてもらうのは駄目だった。
 宗太郎さんの膝の上のスケッチブックと、その上の宗太郎さんの両手を見る。前に女の人の手みたいって言ったら最悪って宗太郎さんに言われた。でもそれは神くんの手と比べたときの話。わたしの不格好な手と違って指が長くてきれいな宗太郎さんの手は、男の人の手。宗太郎さんは男の人。宗太郎さんは男。わたしは女だから宗太郎さんは異性で、当たり前のことなのに凄く変な感じがした。
「おい」
 宗太郎さんの声で我に返った。
「あ、ごめん、えと、どうしようかな」
 神くん、も多分駄目って言われる。
 今、この場にないものでもいいのかなって思ったけど宗太郎さんが描いてくれたわたしの絵はどっちも、直接わたしを見ながら描いたわけじゃなかった。
 なかなか決められなくて部屋を見回す。机の上で倒れていたクマのぬいぐるみと目が合った。わたしは上手く描けなかったクマ。
 立ち上がってクマのぬいぐるみを取ってベッドに戻る。
「これ、描いてほしい」
 宗太郎さんはわたしが差し出したクマのぬいぐるみを受け取らずにそのままじっと見つめる。しばらくして視線を外して、宗太郎さんの手が動き始めた。
 あっという間だった。真っ白だったスケッチブックがどんどん埋まっていく。あちこちに線ができて、気がついたらそれが形になっている。
 宗太郎さんが描いたのはクマのぬいぐるみと、それを胸のところで両手で持っているわたしの絵だった。
 少しの迷いもなく動く鉛筆の先に、クマのぬいぐるみと一緒にわたしの姿も浮かび上がってくる。
「凄い」
 わたしが思わず声を洩らしたのと一緒に、わたしの髪の毛の先で鉛筆が止まった。
「終わり」
 手の中のクマのぬいぐるみと、スケッチブックの中のクマのぬいぐるみ。わたしは見ながら描いても少しも似なかったのに、宗太郎さんが描いたのは、手の中のクマがそのままスケッチブックに入り込んだみたいだった。
 スケッチブックの中のわたしは微笑んでいた。
 写真じゃないのにわたしの顔がそこにある。
 わたしの顔をこんなに簡単に描けるのは、宗太郎さんがそれだけわたしのことを見てくれているからって自惚れてもいい?
 顔を上げたら宗太郎さんがわたしを見ていた。目を逸らした先にあったのは宗太郎さんの唇。唇も、駄目。思い出してしまう。思い出さないようにしていること。だからベッドから立ち上がってこっちを向いていた椅子を机のほうに戻してそこに座った。
 手に持っていたクマを置いた途端、また目が熱くなってきた。
 わたし、今本当に幸せだ。苦しいけどずっと幸せ。
 でも六月がもうすぐ終わる。終わったら七月になってしまう。七月。去年の夏は真っ暗で苦しくて、もう駄目だと思った。今年は、神くんと宗太郎さんがいるけど寄りかかったらいけない。来年はまたひとりかもしれない。
 いつまで二人と一緒にいられるの。いつまで二人はわたしのことを見てくれるの。
 覚悟。できない。全然できない。二人の人に寄りかかる覚悟も、離れる覚悟もどっちもできていない。二人に寄りかかるときは見ないふりをしているだけ。
 宗太郎さんがいるのにこんなこと、考えるの駄目だ。
 泣くのも宗太郎さんが帰って一人になってから。一人に。ひとり。なりたくない。幸せな思い出が増えれば増えるほど、二人と離れたくなくなっていく。
 だから違う。今はこんなことを考えたいんじゃない。今は宗太郎さんがいてくれる。
 立ち上がって後ろを向いたら宗太郎さんの視線とぶつかった。
「何してんの」
「何、も」
 目はずっと見ていられないからスケッチブックの上の両手に視線を落とした。わたしの手とは全然違う手。わたしじゃない人の手。
 宗太郎さんの前に行く。
「何」
 手、触りたい。宗太郎さんの。
「あ、の、目を、閉じて」
「なんで」
「見られるの、恥ずかしい、から」
 こういうこと言うのも恥ずかしい。
「……別にいいけど」
 目、閉じてくれた。
「いいって言うまで、開けないでね」
 目を閉じた宗太郎さんの顔を見る。目を開けているときとはやっぱり違う。じっと見ても怖くない。さっきはこんなふうに見られなかった。絵を描くときはちゃんと見たつもりになっていただけかもしれない。
「さ、触ってもいい……?」
「好きにすれば」
 宗太郎さんは目を閉じたまま言った。またやっぱり駄目って言われるって思ったけどそれ以上何も言われなかった。
 ずっとどくどく動いている心臓が苦しい。宗太郎さんの前に膝を突いて両手を伸ばした。指先が宗太郎さんの手に触れて息を止めた。目もぎゅっと閉じてそのまま宗太郎さんの手を握り締めた。
 温かい。
 体中がじんわり痺れるような感じがして、目を開けた。何度目かの瞬きで涙が落ちた。でも宗太郎さんは目を閉じているから、もういいよって言う前に拭けば大丈夫。
 わたしの手の中に今、宗太郎さんの手がある。
 わたしにとっては神様みたいな人の手。いつかは離れていく人の手。
 急に怖くなって握っていたのを離した。涙もワイシャツの袖ですぐに拭う。
「ありがとう。もういいよ」
「次は俺の番」
 わたしのお願い、聞いてもらっただけで終わらなかった。
 立ち上がったらそう言われて宗太郎さんの右隣に座らされた。
「目、閉じて」
 閉じるの、ちょっと不安だったけど宗太郎さんはわたしの言う通りにしてくれたから、わたしも宗太郎さんの言う通りにしないといけない。
 どきどきしながら目を閉じて俯いていたらこっち向けって言われた。目を閉じたまま、体ごと宗太郎さんのほうを向いた。
 左手を取られて何度か握られた。宗太郎さんの指が手のひらをなぞる。爪の先も指の間も全部触られる。手が震えそうになったのも、宗太郎さんに伝わってしまったかもしれない。
 十本の指に左手をいっぱい触られた後は上げられなかった顔に宗太郎さんの手が触れるのがわかった。顔、宗太郎さんの両手に包まれてもっと熱くなっていく。手を触るので終わりじゃなかった。
 おでこに何かが触れる。手じゃない。だって宗太郎さんの手は両方ともわたしの顔を包んだまま動いてない。
「そ、宗太郎さん」
「いいって言うまで開けるな」
 左のまぶた。右のまぶた。顔のあちこちに何かがやさしく触れていく。目を開ければ何かの正体がわかるけど、宗太郎さんは目を開けてもいいって言ってくれない。
 何かが唇に一瞬触れて、スカートをぎゅっと握り締めた。
「もう、開けても」
「駄目」
 凄く近くで宗太郎さんの声がして唇に熱い風を感じた。何かが何なのか、最初からわかってる。でも、意識したら。
 また、唇に。何度も触れる。
 やめてって言いたかったけどぬるりとした感触、思い出して口を開けなくて下唇の裏を噛んだ。
「もう開けてもいい」
 温かい感触が顔からなくなる。ゆっくり目を開けて見えたのはスカートを握り締めているわたしの両手。
「帰る。電話は、明日する」
 顔、上げられない。声も出てこない。
「バイバイ」
 両手を見つめたまま宗太郎さんが部屋から出ていく音を聞いた。

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