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 埋める記憶

 机の上に転がっていたシャーペンを右手で握り締め、開いていた数学の問題集に突き立てた。僅かに出ていた芯は折れてどこかに飛んで行き紙は抉れ右手に不快な痛みと衝撃が残ってそれだけ。何やってんだ俺。
 一通り見て覚えた問題集にもう用はないのにこうして眺めているのは坂口さんに何を訊かれても答えられるようにするため。父親の知り合いに頼まれた家庭教師のバイトも引き受けてよかったと思う。自分で問題を解くことと人に教えることは似ているようで違うと実感した。あいにく問題を見て一瞬で答えがわかるような頭は持っていないけれど俺の中でも自動的に省かれている部分というのはあって、坂口さんにとってはそれが意外と重要だったりする。
 テストで百点を取るのは簡単だ。なんて言ったら嫌みにしか聞こえないことはさすがに学習したけれど俺にとって簡単なことは事実で、中間試験の点数勝負で坂口さんに勝ちを譲るという選択肢を選ばなかったのは、テストでいい点を取ることが坂口さんに見せられる数少ないいいところだったから。
 要領や記憶力が人より少しよかったおかげか昔から勉強はできるほうだった。
 テストで望まれる答えを書いて百点を取ることには小学校で飽きて、中学に入ってからクラスの平均点を予想していかにそれに近い点数を取るかというくだらない遊びを始めた。
 時間内に、配点がわからないテストはそれも考えながら一問一問分析して平均点を計算して、空欄がないように自然な誤答を作るのも思ったより楽しかったからその遊びは二年くらい続けた。初めは全然違ったときもあったけれど、二年もやれば最初の頃よりは要領をつかんでそれなりに当てられるようになった。
 三年目でその遊びも飽きて、受験もあったから普通に全教科百点を目指したらあと少しのところで目標達成を逃した挙句あほ教師にカンニングを疑われた。次の試験で今度こそオール百点を取ってやった。
 中学時代はテストで遊べる余裕ができるくらい勉強をした。努力したと胸を張って言えたらよかったけれど実際はただの現実逃避で、努力なんて遠い世界の話。
 逃避の手段と学生の本分がたまたま重なっただけ。
「なっさけなー」
 思わず洩らして椅子の背もたれに体を預けて天井を見上げた。さっきまで眺めていた数式がまぶたの裏で踊る。沈みかけていた意識がさらに深いところに沈んで、浮き上がれずにそのまま落ちた。

 坂口さんがいない記憶の一部は文字や数字で埋め尽くされている。埋め尽くしたと言ったほうが正しいか。
 ずっと、頭の中にたくさん隙間がある気がしていた。隙間はどんどん広がっていつの間にか頭の中のあちこちに大きな穴が開いた。何もない空間は余計なものを呼び込む。だからその穴を埋めたかった。余計なものが入り込まないように、隙間を全部なくしたかった。

 昔は四六時中宗太郎と一緒にいたけれど宗太郎が絵を描くときだけは違った。宗太郎が俺とは違う人間だと気づき始めて、それまでは何も考えずに俺も入り込めていた宗太郎の世界に入れなくなったから、宗太郎が絵を描いている時間を、俺は読書に費やしていた。
 最初は母親が読んでくれた絵本。次は図書館で借りた児童書の類。父親が気まぐれで買い揃えた文学全集みたいな分厚い本の山や百科事典も読んだ。
 小学生になってからは学校の図書室の本を読みあさって勉強もするようになった。その頃はまだ、ただ本を読むのが好きだったとかテストでいい点をとって褒められたいからとか、単純な理由で。
 単純な理由が理由ではなくなった頃には、勉強も読書も好き嫌いなんて関係なくなって近所の図書館に入り浸ることが多くなった。学校の図書室も嫌いじゃなかったけれど学校は宗太郎がいる場所でもあったから駄目だった。図書館に併設されていた自習室は何の雑音も入れずに勉強するのにちょうどよかったし、何より図書館には大量の本があった。絵本から最後まで意味のわからない専門書まで目につくものは片っ端から何でも読んだ。
 図書館は俺を現実から確実に隔絶してくれる場所だったから好きだった。

 頭の中を全部、埋め尽くしたかった。何もないことに気づきたくなかった。

 耳障りな振動音で覚めた。
 まぶたの裏の数式はとっくに消えていた。重い頭を何度か横に振ってから今度は机に伏せる。メールの着信を知らせている携帯は無視した。どうせ宗太郎からで、内容は見なくても想像はつく。
 深く息を吐き出して、目と鼻の奥が熱くなるのを感じた。
 今ならわかる。望み通り埋め尽くされた記憶は、やっぱり空っぽだった。



 学校だと朝の僅かな時間しか坂口さんとまともに話せない。宗太郎は毎日顔を見られるだけでいいだろと言うし、俺もその通りだとは思うけれどそれだけでは足りないのも事実。
「今日、うちに来ませんか」
 おはようの後に言ってみたら坂口さんは一瞬笑顔を浮かべて泣きそうな顔になってから俯いた。何だろうこの反応。
「もうすぐ期末だから、勉強一緒にしたいんだけど」
 坂口さんを家に呼ぶ口実が勉強かお菓子しかないのはやっぱりまずいか。普通に一緒にいたいから、だと坂口さんはうちに来てくれないような気がしてにいつも同じような理由を作っている。
「駄目?」
「駄目じゃない、けど」
「けど?」
 坂口さんは何かを考えるようにさらに深く俯いた。
 坂口さんのテンポは複雑だ。普段はとてもゆっくりに感じるのに、時々置いて行かれる。今は俺が待つところ。
「神くんと」
「ん」
「一緒に、勉強したい、けど、でも、期末は一人で頑張るから」
 雑音に紛れたらすぐにかき消されてしまいそうな声で、坂口さんは言った。
「何か、あった?」
 僅かな、でも確実に覚えた違和感。坂口さんは驚いたように顔を上げて、縋るようにいつもは逸らしてばかりの目を俺に向けた。
「あ、の」
 一度開いた口は小さく動いただけでまた閉じられ、坂口さんは首を横に振った。
「何もないよ」
 坂口さんは嘘を吐くのが下手だ。
「うそつき」
 どの口で言うのかと、自分でも思った。
「ちが――」
 坂口さんが言いかけたのを遮るように後ろの戸が開く音がして、坂口さんは慌てて前を向いた。
 髪を触りたいとか抱き締めたいとか坂口さんに逃げられそうなことばかり考えながら毎日見ている後ろ姿。坂口さんは俺たちにとってそういう対象だとちゃんと言ったはずなのに何故か坂口さんはそのことをまだよくわかっていないような気がする。
 とても無防備で、簡単に手に入りそうで、でも実際に手を伸ばすと拒まれる。
 坂口さんの熱を思い出して、坂口さんにはとても言えないことを想像している。坂口さんが怖がるのは、そういうのを全部わかってなくてもどこかで感じ取っているからなのかもしれない。自分でもうまく隠し切れているとは思えない。
 坂口さんがいる。目の前に。前に一度坂口さんが遅刻したことがあった。坂口さんのいない席を見て動揺した自分にさらに動揺した。
 依存。しているのか。坂口さんに。坂口さんがいない世界はもう考えられない。と思う自分が信じられない。
(坂口さんがいる)
 常に感じていた隙間は、なくなったわけではないけれど今は時々遠くに感じるだけ。だからもう馬鹿みたいに読書や勉強をする必要はなくなった。今まで意識しなかったくらい自然に、そうなっていた。
「坂口さん」
 三人目がいるのに呼んだら坂口さんの肩が驚いたように揺れた。坂口さんが人前で俺と話したりすることを避けたがっているのは何となく感じているから俺もできるだけ人前では坂口さんに声をかけないようにはしている。でもやっと気づいたから今坂口さんに伝えたい。
 俺のことを無視できなかった坂口さんは体を少しひねって俺のほうを向いた。
「な、に……?」
「ありがとう」
 坂口さんと一瞬目が合う。
「え、と、あの……」
「それだけ、言いたかったから」
 困惑した表情を浮かべていた坂口さんは少しだけ笑顔を見せてくれた。
「わたしも、ありがとうっていっぱい言いたいよ」
 この場に三人目がいることを感謝するべきか恨むべきかわからなくなった。二人きりだったら、きっと坂口さんを抱き締めて離さなかった。

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