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 長い夜01

『それじゃあ、明日の五時くらいに行くから』
「うん、準備して待ってるね」
 また明日。別れの挨拶をして受話器を置いた。
 土曜日に一緒にすき焼きを食べる約束。金曜日の今日になっても神くんにも宗太郎さんにも何も言われなかったからなかったことになったんだって思って悲しかった。でもさっき、ちょうどお風呂から上がったところで神くんから電話がかかってきて、約束はなかったことになってなかった。
 明日二人に会えるのは嬉しいけど準備はちゃんとできるかなって不安になっていたらまた電話が鳴った。
「もしもし」
『孝太郎から聞いただろ。明日のこと』
「うん」
 毎日十時に電話する。すき焼きの約束とは違ってこっちは約束したその日から本当に電話がかかってきた。
『今日は何かあった』
「うん、と、お弁当の玉子焼き、おいしくできた。あとね、溝口先生に褒められたよ」
『何を』
「授業で言葉の意味訊かれて、そしたら『よく知っていましたね』って」
『そんなに嬉しいもんなの』
「え?」
『声が、いつもと違う』
「ごめ、ん」
 嬉しいことがいっぱいで、浮かれすぎた。
「あ、えと、宗太郎さんは」
『今日もバイト』
 宗太郎さんは何のアルバイトをしているのか気になったから昨日思い切って訊いてみたけど教えてもらえなかった。今朝神くんに訊いたら今度教えてあげるって言われて、やっぱり教えてもらえなかった。
「お、お疲れ様」
『ん』
 こういうとき、どんなふうに声をかければいいのかわからない。変じゃなかったか不安だったけど宗太郎さんは普通に答えてくれたから多分大丈夫。
『明日、行くから』
「うん」
 バイバイ。もう一度別れの言葉。受話器を置いて、首にかけていたタオルで耳を塞いで目を閉じた。
 今日も二人とたくさん話せた。明日も会える。一緒にごはんを食べられる。
 すぐそこにある暗闇は今は見ない。



 朝は七時に鳴るようにセットした目覚ましが鳴る前に起きた。気分がよくてベランダに出る。
 風がなくて空気が温い。空はもう明るかったけど曇り空だった。もう梅雨の時期。天気予報では今日は一日曇りみたい。
 突き抜けるような青い空は時々怖いけど、空一面雲に覆われていると守られているみたいで、曇りの日は何だか安心する。
 雨の日も、大変だけど嫌いじゃない。家の中や教室で雨の音を聞くのは好き。
 雨音に包まれて、溶ける。

 買い物はいつものスーパーで午前中のうちに済ませてしまう。白菜と春菊、焼き豆腐、白ネギ、しらたき。あとは卵。しいたけもあったほうがいいかなって思ったけど苦手だからやめた。うどんも買った。
 家に帰ったらずっとしまいっぱなしになっていたホットプレートを出して綺麗に洗った。わたしだけのときはすき焼きはいつも小さなお鍋で作っていた。ホットプレートは一人だと大きすぎるから。今日は三人。神くんと宗太郎さんはたくさん食べるかな。ご飯、多めに炊いておこう。
 服、どうしようかたくさん迷った。神くんと宗太郎さんに会うときはいつも制服でそれ以外のときはパジャマか部屋着でちゃんとした服じゃなかった。
 持っている服を全部出して、白いシャツと黒いカーディガン、それから最初はズボンだったけど買い物から帰ってから灰色のロングスカートに着替えた。動きにくいからあまり履いてなかったけど、脚が全部隠れるからちょうどいい。それにスカートのほうが、少しは女の子っぽく見えるはず。

 世界が明るい。
 掃除機をかけるのも楽しい。
 もうすぐ会える。二人に会える。



 五時少し前に電話が鳴った。神くんだった。今家の前。うんって言って電話を切った。
 ドアを開ける。
「こんにち、は」
 言ってから、もうこんばんはの時間かなって思ったけど神くんは笑顔を浮かべてくれた。
「こんにちは」
 神くんの私服姿は初めてじゃないけどやっぱり何だかどきどきする。今日はぴったりした感じの、水色で英字がプリントされた長袖のTシャツとジーンズ。神くんの後に入ってきた宗太郎さんは、スーツだった。あれ?
「……知り合いに頼まれて手伝いに行って、そのまま来た」
 わたしが変な顔をしたのに気づいたのか宗太郎さんが教えてくれた。
 知り合いって誰? 手伝いって何の?
 凄く気になったけど、それには答えてもらえないと思ったから訊くのはやめた。
 髪型も、整髪料でまとめていていつもと違う。変な感じ。神くんもスーツ似合いそうだなとか余計なことを思った。

 お肉はスーパーでパックで売ってるのしか買ったことなかったけど、神くんはパックのお肉じゃなくて駅の近くのお肉屋さんで買ってきてくれたみたいだった。
 一度には食べきれそうにないくらいたくさんあった。
「あの、お金」
「いや、大丈夫。俺たちが用意したの肉だけだから」
 わたしが今日買ったすき焼きの材料よりも、神くんたちが持ってきてくれたお肉のほうがずっとお金がかかったはずなのに、神くんは気にしなくていいよって言ってくれた。
 神くんは他の材料とホットプレートと食器が並んだテーブルの上にお肉が入った袋を置いた。
 スーツ姿の宗太郎さんは上着を脱いで椅子にかけた。ネクタイを少し緩めてからワイシャツの腕を捲くる。じっと見ていたら後ろを向かれた。
 一人だと凄く大きく感じるダイニングテーブル。わたしの右隣に神くんが座って、宗太郎さんはわたしの向かいに座った。
「坂口さん、割り下は?」
 何かを探すようにテーブルの上を見ていた神くんが言った。
 割り下。
「え、あ、ごめん、いつも砂糖とか醤油とかそのまま適当に入れてたから、割り下、用意してなくて」
「そっか、じゃあちょっと台所借りてもいい?」
 どうしようって思ったけど、神くんは別に何でもないふうだったからよかった。宗太郎さんも何も言わなかった。
 調味料の場所、神くんは知らないからわたしも一緒に行く。
「神くんって、何でもできるね」
 手際よく調味料を混ぜている神くん。分量とか、ちゃんと覚えてるんだ。
「ん、まあ、料理はいつもするからね」
「宗太郎さんも、上手い?」
「普段は全然しないけど、やろうと思えばできるんじゃないかな」
「神くんも宗太郎さんも、器用で羨ましい」
「俺はそんなでもないけど、宗太郎は本当に器用だと思うよ」
 それから神くんが小さく笑った。
「坂口さん、今日はよく喋るね」
「え、ご、ごめん」
「なんでそこで謝るの。珍しいなって思って」
 浮かれるとろくなことにならないのにそれでもふわふわ浮いてしまう。
 好きな人と一緒にいる。嬉しい気持ちがどんどん溢れてくる。
(好き)
 その言葉が頭をぐるぐる回って神くんの名前を呼んでみたくなった。宗太郎さんは宗太郎さんなのに神くんの下の名前は一度も呼んだことがない。神くんは神くんだった。学校だと下の名前で呼んだりできないけど、今はわたしの家。呼んでみたい。
 神くんの下の名前は孝太郎。いつも神くんって呼んでるから孝太郎くん。それとも宗太郎さんと同じように孝太郎さん? どっちも変な感じ。でも呼んでみたい。
「孝太郎」
 最初は心の中でこっそり呼ぶだけのつもりだったのに、どっちにするか迷ってるうちに声が勝手に出て焦って結局どっちも言えなくて呼び捨てになってしまった。顔、一気に熱くなって恥ずかしくてどうしよう。
 ごめんって謝ろうとしたら、がしゃんって神くんの手の中の小さめのボウルがひっくり返って、せっかく作った割り下が流しに全部零れた。
 神くんを見上げて目が合って、真っ赤だった。神くんの顔が。
「っと、え、坂口さん、今」
 驚いたような、困ったような顔で神くんがわたしを見ている。わたしが変なことを言って神くんを困らせた。
「ごめん」
 ひっくり返ったままのボウルを戻そうと伸ばした手を、神くんの腕に遮られた。
「ごめん、すぐに作り直すから、向こうに行ってて」
 心臓がぎゅってなって、泣きたくなった。本当に、ろくなことにならない。
 ごめんって、もう一度言いたかったけど言ったら涙まで出てきそうで言えなかった。
 台所を出たら怖い顔をした宗太郎さんが待っていた。
 神くんとの会話、小声だったけど全部こっちまで聞こえてたのかもしれない。恥ずかしい。
 自分の席に座る。向かいにはいつもと違う宗太郎さん。
「馬鹿女」
 やっぱり聞こえてたんだ。
「……ごめん」
 神くんが割り下を作り直している音が聞こえる。音、結構響く。ずっと一人だったから、こんなことも忘れていた。胸がちくりと痛んだのには気づかなかったことにした。
「今日の宗太郎さん、何だか、大人の人、みたい」
 沈黙が気まずかったわけじゃないけど、浮かれ気分がすぐに復活して、また余計なことを言った。自分の両手で遊んでいた宗太郎さんがわたしを睨む。
「ご」
 めん、を言う前に。
「変?」
 宗太郎さんが、わたしを睨んだままいつもは訊かないようなことを訊いてきた。
「へ、変じゃないよ、全然。凄くかっこいい」
 口が滑った。宗太郎さんの口元が怒ったようにぴくりと動いて、わたしは俯いた。今度こそ本当に気まずい空気になったけど、すぐに神くんが戻ってきた。
「お待たせ」
 今のやりとり、神くんにも聞こえてたんだって思ったらもっと恥ずかしくなった。
「早くやって」
 宗太郎さんが神くんに言って、神くんは「はいはい」と慣れたように返した。やっぱり神くんのほうがお兄さんみたい。
 神くんは菜箸を使って牛脂を溶かしてお肉を焼き始める。わたしも何か手伝いたかったけど何をすればいいのかわからなくて手伝えなかった。神くんが手を動かしているのを宗太郎さんと一緒に見ていた。

「ん、そろそろいいかな」
 神くんが蓋を開ける。湯気が一気に上る。おいしそう。
「あ、ご飯! ご飯、よそうね」
 やることを見つけて慌てて立ち上がった。ご飯の量、どれくらいにすればいいか迷って、神くんと宗太郎さんの分はちょっと大盛りにした。
 最初は宗太郎さんがすき焼きを小皿に取って、神くんが菜箸を渡してくれたから次はわたし。
 焼き豆腐を取って、それからお肉とネギと白菜を取った。しらたきも少し。
「いただきます」



「ごちそうさまでした」
 あんなにたくさんあったすき焼きは、全部なくなってしまった。凄くおいしくて、わたしもたくさん食べたけど神くんと宗太郎さんはもっとたくさん食べていた。食べている間はあまり会話はなかったけど、温かくて幸せで楽しかった。神くんと宗太郎さんも同じことを思っていてくれたらいいのに。
 食べ終わった後は神くんに割り下の作り方を教えてもらって、神くんと宗太郎さんが知らない人の話をしているのを聞いて、後片づけの時間。
「片づけは俺と宗太郎でやるから」
「え、でも」
「坂口さんには準備をしてもらったから。休んでて」
 ちゃんとわたしも手伝いたかったけど、神くんに言われて結局リビングのソファで二人が片づけるのを待つことになった。
 目を閉じて耳を澄ます。わたし以外の誰かがいる気配が、自分でもおかしいと思うくらい嬉しい。
 当たり前だったことが当たり前じゃなくなって、小さなことが凄く幸せなんだって知った。知って、もっと苦しくなった。わたしが幸せだと思えるのも苦しいと思えるのもわたしが生きているから。
(ごめんなさい)
 自己満足の言葉を繰り返して、自己嫌悪。どんなに言ってももう届かない。わたしがそうした。
 まぶたの裏が暗くなって目を開けて、いつの間にか聞こえなくなっていた音が戻ってくる。影。神くんの。
「あ、片づけ、終わった?」
「今宗太郎が皿洗ってるから任せた。もう少ししたら戻る」
 神くんがわたしの左隣に座った。
 いつもわたしが座ったり寝たりしているソファに、神くんが。
 どきどきして、宗太郎さんが初めてこの家に来たときのことを思い出してしまった。
 追い詰められて苦しかった。あのときは、宗太郎さんがとても怖かった。今日みたいな日が来るなんて本当に夢みたい。
「坂口さん、お願いがあるんだけど」
 神くんのお願い事。
「何?」
 わたしにできることなら何でもしたい。わたしが今まで貰った分を少しでも返したい。
「名前、もう一回、呼んで」
「え」
 名前、呼んでって、なんで。だって、さっき神くんは困っていた。
「駄目?」
 わたしは慌てて首を横に振った。
「あの、嫌じゃ、ない?」
「呼んでほしいから頼んでる」
 膝の上の握り拳を見つめた。息を吸う。
「孝太郎、さん」
 迷ってやっぱり「さん」にした。神くんはクラスメートで、でも下の名前で呼ぶのはそういうの関係なくて、神くんは年上の人。
「俺も坂口さんの名前、呼んでいい?」
 びっくりして、隣の神くんを見てしまった。わたしの勘違いでなければ嬉しそうな顔で、神くんは言った。
 一瞬合った目は、すぐに逸らしてしまった。
「う、あ……わた、し」
「ん、ごめん、ちょっと無理言った」
「違、う、あの、神くんが、嫌じゃないなら」
 神くんがわたしの名前を。宗太郎さんには呼んでもらったことがある。凄く嬉しかった。神くんはずっと「坂口さん」で、そう呼ばれるのも好きだけどいつか、一回でもいいから伊織って、呼んでもらえたらって思った。呼んでもらう夢も、見たことがある。
「伊織」
 神くんの声がわたしの名前を呼ぶ。体の奥まで響いて、余韻が全身に広がる。
 神くんと宗太郎さんの声はよく似ているけど、響き方が違う気がする。うまく言葉にはできない感覚。
 神くんに名前を呼んでもらえたのが嬉しくて、わたしの体はちゃんと二人のことをわかるようにできているのも嬉しくて、幸せだった。

 神くんはまた台所に戻って、わたしはソファに体を預けたまま見慣れた天井を見上げて二人がいなくなるときのことを考えた。

「今日はありがとう」
 玄関で宗太郎さんが先に靴を履いている間に神くんが言った。
「うん、わたしも、ありがとう。あ、明日は、何かあるの?」
 二人が帰ってしまうのが寂しくて、でも帰らないでとも言えなくて関係ないことを訊いた。
「俺は朝からバイト。宗太郎もどっか行くんだっけ?」
「ん」
「あ、あの、バイトって家庭教師の?」
「いや、明日はコンビニ。本当は昼からだったんだけど今人手が足りなくて」
 初耳。神くんは家庭教師とコンビニのアルバイトをしているんだ。もしかして他にも何かしているのかな。今まであまり忙しそうなイメージがなかった。わたし、たくさん神くんの邪魔をしてしまったかもしれない。
 コンビニは学校帰りとかに時々寄る。店員さんが神くんだったら、変な顔になってしまいそう。
 神くんが働いているところ、見てみたい。どこのコンビニなんだろう。訊いたら迷惑かな。
 考えているうちに神くんも靴を履き終わっていた。
「それじゃあ月曜日に」
「うん」
「明日、十時に電話する」
「うん」
 バイバイ。
 手を振って、ドアが閉まるのを見た。鍵、閉めないと。チェーンもしっかりかける。
 振り返って、誰もいない廊下に心臓の音が大きくなった気がした。
 いつもと何も変わらない。いつもと同じ夜。これからお風呂に入って、歯を磨いて、日記も書かないと。今日も書くことがいっぱい。神くんと宗太郎さんのこと。
 今日はきっといい夢を見られる。

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