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 右手

 あまり人のいない放課後の図書室の空気は嫌いじゃない。グランドから聞こえてくるかけ声とか近すぎない人の気配とか。向かいの席で数学の宿題と格闘してる坂口さんも多分そうなんだろうと思う。
 適当に取った本のページを捲る。授業が終わっていつもなら真っ直ぐ昇降口へ向かう坂口さんが、いつもとは違う方向へ行くからついてきてみた。坂口さんは斜め向かいに座った俺に気づいて最初は驚いていたけれど、今はじっとノートを睨んだまま……じゃなかった。
 明らかにノートからずれてる視線。何を見てるんだろう。追っていった先にはパラパラ流し読みしていた本。のページを捲っている俺の手。
 もう一度坂口さんを見る。

 なんて、熱っぽい目。

 坂口さんに捉えられている右手を、そっと手前に引き寄せる。一緒に坂口さんの視線も動く。
 ゆっくり持ち上げて、唇を触る。それから、目元のところまで持っていってひらひら振ってみる。
 そこでやっと俺が見ていたことに気づいた坂口さんは、慌てて俯いた。俺は声を抑えて笑う。

「明日、うち来る?」

 そう言ったら今度は勢いよく顔を上げた。赤いのは多分気のせいじゃない。
「わからないところあるなら、俺、結構役に立つよ」
 一度開きかけた口を閉じて、坂口さんの目が迷うように動く。
「今回のところ、いつもよりかなり難しいよね」
 坂口さんの迷いがさらに大きくなったところでとどめの一言。
「すっげえうまいシュークリームもあるんだけど」

 少し考えるようにしていた坂口さんは、小さく頷いた。

「じゃあ、明日は一緒に帰」
 最後まで言う前に、あからさまに嫌そうな顔をされた。
 ねえ坂口さん、さすがの俺も、それは傷つくよ。凄く。

 明日のことは明日どうにかすればいい。気を取り直して坂口さんを見ると、帰り支度を始めていた。今日はもう諦めたらしい。今教えてもらうということは思いつかないのか、ただ単に言い出せないのか。坂口さんが立ち上がって、俺も慌てて立ち上がる。一瞬目があって。

「バイバイ」

 小さく手を振って。一緒に帰ろうと、言う間もなく坂口さんは行ってしまった。
 一人残された俺は棚に戻そうと手に持っていた本に目を落としてため息を一つ。
 また、逃げられた。
 やっと掴まえたと思ったのに。
 さっきまで坂口さんの熱い視線を受けていた自分の右手に軽い嫉妬を覚えながら、もう一度大きく息を吐き出した。

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